もらった愛は、時折たっぷりの時差を掛けて受け取るのだ。
2015年から、私は自分への愛を育む活動を仕事にしてきた。
そのきっかけは、この記事に書いたように、人生を生き直したいと思ったから。
小さい頃私は、5歳離れた妹がいつもどこに行くにも私の後を付いてきて、それがすごく嫌だったし、いつも何をするにも可愛がられて注目される妹が嫌いだった。
でもそんなことは、少し大きくなれば本当にどうでもいいことで、意地悪したことや、仲良くしてあげられなかったことを私は心のどこかでずっと悔やんでいた。
入院をした時に、妹が手紙とともに手作りのクッキーを焼いてくれた。
それはすごく遥か昔に、私が焼いたクッキーを真似して作ったのであろう、少し甘くて厚めのクッキーだった。
クッキーを焼いた本人はすっかり忘れるほどとても些細なことが、幼かった妹の中では思い出としてしっかり記憶に刻まれていたのだ。
それから手術後目を覚ました時に、泣いている母を支える弟がいた。
幼い頃は誰よりも怖がりで泣き虫で、繊細で優しかった弟は、大阪に引っ越した途端、煙草は吸うし、警察のお世話になりっぱなしだった。
でも大学生になり、父の代わりに私のお見舞いにきて、母を支える姿を見たら、きっと彼は彼なりに色々あり、そして成長したのだろうと察した。
そう、私と同じように。
今でこそお互いを思いやる気持ちによって丸くなった私たちだけど、大事なところはきっと、誰も何にも変わっていなかったのだ。
ただ少しそれぞれの人生の中で、一時的に、表面的に何かが変わってしまうことがあっても、その人の中にある優しさや相手を想う気持ちに変わりはなく、だけどそれを真っ直ぐ表現できるほどの自覚もなく。
私たちは見えているようで実は、ほとんど何も見えていないのかもしれない。
見えるものに惑わされ、本当に目を向けるべきところを見失い、だからすれ違いを繰り返している。
大好きなのに憎んだり、大切なのに冷たくしたり、自分の中でも様々な想いが混在しているけど、でも根っこの部分は本当は何一つ変わっていないのだと思う。
喧嘩したいわけじゃない。
本音はただ一緒に楽しく過ごしたいだけだった。
怒らせたいわけじゃない。
本当は笑ってくれると思っていた。
こんな受け取り違いが、人間関係においても、人生においても、きっとたくさんある。
だから人は傷付き、腹を立てるのだけど、本当の理由を知れば、そこにあるのは愛でしかなかったのだと気付くはず。
そう、私たちのそれぞれの人生において起こる出来事すべては、誰かによる温かな思いやりでしかないのだ。
本当の私たちは、こんなにも大切に思い思われ生きている。
でも自分のことでいっぱいいっぱいだと、そんなことはまるで綺麗事にしか聞こえなくて、世界も神もすべてが敵に思えてしまうけど、そんな自分のことさえも想ってくれている誰かがいるのだ。
私はそれに気付いたとき、こんなに大切にされている自分のことを、私自身も大切にしたいと思ったし、大切に思う人たちのことを大切に出来る自分であれるように、まずは自分に優しく生きることを、どれだけ重要な「やらなければいけないこと」よりも大事にしている。
それまでの生き方は、人と比べて一喜一憂したり、誰かが決めた基準を目標にしていたけど、今の私にとって、私が大切だと思うすべての存在(それは動物や自然を含めて)を大切に出来る自分であること以上に、なりたい自分はいない。
だって結論、人は人、私は私なのだから。
表面的な一面はどれだけ変わることが出来ても、本質はいつまでも変わることがなく、そして本質こそがその人の魅力であり愛おしいもの。
結局人と人は、その本質の部分でこそ繋がり合える。
一度死の間際を体験したからか、その時、「今の自分ではお葬式に来る人が誰もいない」と、あまりにも表面的すぎた今までの自分と人との繋がりにがっかりしたからか。
その場限りのご縁というのに今の私はそれほど興味がなくて。
その後の人生の中で会う会わないは別として、出逢った人とのご縁は一生忘れないつもりで生きている。
だけど私は、見えているようで全く見えていないことも多く、こうやって時折人生を振り返りながら、たっぷりの時差を掛けて、もらった愛を受け取るのだ。
假屋舞