純粋で、そして勇敢に生きた殉教者たちに想いを寄せて。
メリークリスマス!
假屋舞です。
ここ4年、クリスマス(特に12月25日)に何かと因縁があり、その理由が今朝少し分かった気がして、近所にある教会に初めて行ってみました。
そういえば、教会に足を運んだこと自体が人生初なような。
私はジュエリーブランドも立ち上げているのですが、
以前作ったメダイジュエリーたちを家に帰って眺めていました。
最近、「これは私の純粋さだったのか」と思うようなことに出会ったんです。
出会ったというか、それがずっと私を突き動かしていたことに、ようやく私が気付いたんです。
先日のこの記事の中にも、その私がいました。
”それ”が何なのか分からないけど、突然目の前に現れて、すごくいい!と思ったから始めた四柱推命。
受講料がいくらで、どんな内容で、どれだけ今後役に立つのか。
そんな考え、頭にかすりもしなかった。
それと同じように、I am…のジュエリーも、世界中の数多ある石やバイヤーの中から、出会うべくして出会った、すごくいい!と思ったものだけを仕入れてデザインし、
今引き渡し目前の壱岐島リトリートハウスマノアも、突然目の前に現れて、すごくいい!と思ったから始めた。
こんな大きな物事だけでなく、多分私はずっとそうなんだ。
どんな些細なことだって、すごくいい!と思ったから通い、会いに行き、買い、身につけ、シェアしている。
自分が良いと思ったものに、眩しいほどまっすぐで純粋な私がいる。
すごく良いと思ったからすごく良い。
その気持ちに純粋な私が、いつも動いてきた。
でもそんな私でいられない時がある。
「これで良いのかな?」
「これをやって何になる?」
「どうすれば良いの?」
「みんなはどうなんだろう?」
自分でも気付かない内に、迷い、疑い、周りを気にしている時がある。
でも、違うんだ。
私は、「すごく良い!」と思ったから動くんだ。
中途半端な「良いね」じゃなくて、「すごく良い!」。
そう思った瞬間の私には、迷いも疑いも周りのことも一切関係ない。
迷い、疑い、周りを気にして、中途半端になる私も、365日24時間の何処かにはいるけど、動くのはその私じゃない。
大事なことだから、何度も言う。
何度も自分に言い聞かせる。
純粋な私が、私を動かしてきたんだ。
イエスの12使徒の最期は殉教だった。
自らが信じた神を裏切るのであれば、死を選ぶ。
彼らは最期まで、自分が信じたものを信じることを選んだのだ。
それは言うならば、命よりも魂を選び、死を選んでも魂は売らなかったのだ。
頭を下げれば生きれただろうか。
親を捨てれば地位を得られただろうか。
彼らは愚かな選択だったのだろうか。
人の世では、
上の者に盾突かず、良い顔していればいいことがある。
生きるためなら、自らの誇りさえ捨てることがある。
そういう人のことを”賢い”と呼ぶことがある。
12使徒たちは、”生きる”という意味では賢くはなかったのかもしれない。
でも世界中の誰よりも純粋だった12人だからこそ、人々の心を動かしてきたんじゃないのか。
少なからず私も賢くないところがあって、もっと上手くやれるはずなのに、上手くやる方を選べば身が引き裂かれるような想いをすることを知っている。
なぜだか今日は、純粋で、そして勇敢に生きた殉教者たちのことを想う。
どうかあなたたちが生きていた時代よりも、少しは純粋な人たちが純粋なまま生きれる時代になっていますように。
假屋舞
現在、自分らしく一生輝くための1年間のコンサル、假屋舞のガチコン。
個人セッション等、募集しています。