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家族への愛という原動力だった。

「今の原動力ではもうこれ以上走れない」
そう思ったのは、ちょうど半年前だった。


欲、憧れ、感情、エゴ。
そういったものをめいいっぱい爆発させて生きてきた。

だけど、めいいっぱい爆発させて憧れに手を伸ばして来たからこそ、何かを見つけないと、何かが起きないといけないこの原動力に疲れてしまったのだ。


これからますます自分らしい人生の繁栄を望むなら、見直さないといけないと思った。
例えるなら、原子力発電からもっと自然エネルギーに転換しなければ、と。

それくらい、思い切って変えたかった。
とはいえ、私の中の”何”が、あれほどのエネルギーの代わりになる?


それを考えていた時に、私は20世紀を代表する天才科学者が残した一通の手紙の存在を知る。


「現段階では科学がその正式な説明を発見していないある極めて強力な力がある。それは他のすべてを含みかつ支配する力であり、宇宙で作用しているどんな現象の背後にも存在し、しかも私たちによってまだ特定されていない。その宇宙的な力は愛だ。

科学者が宇宙の統一理論を予期したとき、彼らはこの最も強力なまだ見ぬ力を忘れてしまった。愛は光だ。愛は力だ。なぜならそれは私たちが持つ最善のものを増殖させ、人類が盲目の身勝手さのなかで絶滅するのを許さないからだ。愛は展開し、開示する。

愛のために私たちは生き、また死ぬ。愛は神であり、神は愛だ。この力はあらゆるものを説明し、生命に意味を与える。これこそが私たちがあまりにも長く無視してきた変数だ。それは恐らく、愛こそが人間が意志で駆動することを学んでいない宇宙の中の唯一のエネルギーであるため、私たちが愛を恐れているからだろう。


愛に視認性を与えるため、私は自分の最も有名な方程式で単純な代用品を作った。「E = mc2(二乗)」の代わりに、私たちは次のことを承認する。

世界を癒すエネルギーは、光速の2乗で増殖する愛によって獲得することができ、愛には限界がないため、愛こそが存在する最大の力であるという結論に至った。
私たちを裏切る結果に終わった宇宙の他の諸力の利用と制御に人類が失敗した今、私たちが他の種類のエネルギーで自分たちを養うのは性急である。もし私たちが自分たちの種の存続を望むなら、もし私たちが生命の意味を発見するつもりなら、もし私たちがこの世界とそこに居住するすべての知覚存在を救いたいのなら、愛こそが唯一のその答えだ。
恐らく私たちにはまだ、この惑星を荒廃させる憎しみと身勝手さと貪欲を完全に破壊できる強力な装置、愛の爆弾を作る準備はできていない。

しかし、それぞれの個人は自分のなかに小さな、しかし強力な愛の発電機をもっており、そのエネルギーは解放されるのを待っている。
私たちがこの宇宙的エネルギーを与えかつ受け取ることを学ぶとき、愛しいリーゼル、私たちは愛がすべてに打ち勝ち、愛には何もかもすべてを超越する能力があることを確信しているだろう。なぜなら愛こそが生命の神髄だからだ。」





そう。
欲、憧れ、感情、エゴに変わる、いや、それ以上の力を持っている唯一のエネルギーは、おそらくアインシュタインが言った「愛」なのだ。


この手紙を読んでから、私は人生で初めて愛の存在に意識を向けた。


2月

愛をまず初めに私に教えたのは、梅の木だった。

「春が来る」

その知らせは、私の胸に小さな希望の光を灯した。



自然界の景色が日に日に繁栄していく様子を眺めながら、「生命の世界は、すべてが良い方向に向かっているのだ」と思った。
それが例え枯れゆく花であっても、それさえも良い方向なのだと。



冬はいずれ春になり、雨はいつか止むことを知っているように。この安心と信頼の流れのことを、愛と呼ばずに何と呼ぼう。

私は愛の流れの中を生きる”生命”。
すべての生命と私の向かう先は同じなのだと知った。


4月

父と母が家に遊びに来た。
小さくなった背中を眺めながら、なぜだか急に、2人の腕に抱かれていた日々のことを思い出す。

「お金がないから大変だ」
これは小さい頃、母の口癖だった。
お金が理由でよく2人は喧嘩をしていたような気がする。

だけどそれ以前に2人は、現実的に大変なことも承知で、私を産む決断をしたのだというそんな想いが私の中を駆け巡った。
大きな愛と覚悟を持って、父と母は私を産んだのだ。

未来への不安よりも誕生を喜び、大変であっても愛してくれた。

”私は愛されて生まれて来た。”

父と母の愛が、私の人生を温かく包み込んでいるのだと知った。


5月

私が子宮推命や発信を始めたとき、まだ実家で暮らしていた私は近所の氏神神社に21日参拝をしたことがある。
その時に何があったわけではないけれど、私の思い出の中では、21日参拝は”始まった場所”のように感じていた。

”あの日から何が始まったんだっけ。”

8年ぶりにその場所を参拝しながら、「そうだ」とはっとする。


あの頃の私は、自分を好きになりたくて、自分を肯定したくて、自分を信じたくて、自分の内なる声を聴きたくて、だから21日参拝をしてみたり、活動を始めたのだった。

「それは、自分への愛だったのではないか。
私は8年間、自分への愛を育んできたのではないか。」


自分を愛したいのではなく、すでに私は自分を愛していて、この8年間のすべては、”自分への愛”で出来ていた。


愛に気付いていく一方で、仕事やお金への意欲は減っていた。

今まで原動力であったものはもう使えなくなるということで、一時的には仕事やお金の巡りが止まり、もしかしたら人脈が変わることもあり得るかもしれないことは覚悟していた。

今は、縮小ではなく拡大するために必要な選択なのだと、言い聞かせていた。


買い物はしていなくても、過去に買ったものがある。
それが、壱岐島リトリートハウスマノアだった。


私が立ち止まることを予期していたかのように、マノアの工事も約半年間止まっていた。
おかげでお金の心配はそこそこで済んでいたのが、5月末になり、「6月中には完成する」との連絡が入った。

マノアはなんと全額キャッシュで支払っている。
残りの支払いである1600万円ほどがのんびり向き合っていた私に急接近して来たのだ。


さらにうちの会社は、4月が決算。
6月末が納税の締め切りである。

マノアの支払いと納税がかぶるという、支出の面では最悪な展開。
そんな中、6月に入ってピタッと止まった売り上げと、減っていく所持金。

「あぁ、今月はクレジットの引き落としも間に合わない」

そんな大ピンチの中であるにも関わらず、呑気にランチの新規開拓をして、日常を楽しんでいる自分に、「なぜ私はこんなに余裕があるんだ?」と疑問に思った。

その問いの答えは、エスカレーターを上っているときにやって来る。


「私に無くても、みんながある」


恐ろしく他力な考えに、頭を抱えた。
と同時にその自信はきっと、ここに至るまでの多くの愛の学びから「私は愛されている」という絶対的なこの生命に対する信頼と安心感を得たからこそ、同じように他者に対してもそう思うのだろうと思った。

私はすでに揺るぎのない”愛し愛される自信”を根底に宿しているのだから、「人に分かってもらえない」とか「どうせ人は離れていく」という拗ねた考えはもう要らないとのだと思った。


noteを始めたのは、そんな気付きに浸っている時だった。

8年続けているアメブロでは無く、今真新しい、誰も私を知らない場所で自分の思いを綴るとしたら、私は何を書くのだろう。
そんなことを不意に思ったからだった。

一番最初の記事は何を書くんだっけ。
二つ目の記事はどうしようか。


8年ぶりの新鮮な感覚だった。

「思いっきり振り返って、思いっきり自己紹介をしよう」そう思い、生まれた時からを振り返った。



思い出すままに、アメブロにも書いていなかったかもしれない話も含めて書いていく。
9000文字になったそれ以上の出来事や気持ちや感覚が、私の中に鮮明に蘇り、この日私は一日中号泣していた。


12年前、手術をした。
全身麻酔をする直前に溢れた純粋な感情と、麻酔から醒めた私が見た景色を通して思ったことが、私の人生をここまで大きく変えたのだと、ようやく今初めて自覚をしたからだ。

居場所がないと家族に抵抗して、反抗していたのは私だけだったのだ。

自分は邪魔者だと思って劣等感だけを抱えて生きてきたけど、そんなことなく、いつだって自分は愛されていたのだ。

死にたいなんて思っていたけど、本当は死にたくなんてなかったのだ。

大嫌いだと思っていたけど、大好きだったのだ。

わたしのこと

くだらない意地を張って、心配をかけた。
こんなことを望んでいたんじゃない。
私はただ家族みんなと笑って、幸せに過ごしたいだけだったのだ。

随分遠回りをして、ようやく見つけた素直な本音。私はその本音をずっと大切にして12年間、生きてきた。


それは私の中にあった、紛れもない家族への愛。


家族への愛が、私の人生を見つめ直させ、自分への愛を育ませてきたのだ。
家族に心配をかけまいと誓い、私をここまで正しく導いてきたのだ。



半年前に私は、「原動力を変えたい」と思った。
もうこの原動力ではこれ以上は走れなかったから。

その原動力の正体を私は、欲や憧れや感情やエゴだと思っていた。
でもそれらは、自分への愛の中にあり、さらに自分への愛は、家族への愛の中にあったのだ。


つまり最初から私の原動力は、愛だった。


だけど表面にある、欲や憧れや感情やエゴによって、愛が見えなくなっていただけ。
どんな怒りや悲しみも、すべては愛から始まっていて、私たちはその存在を忘れているだけ。

5年ほど前の家族写真



そして、気付く。
家族への愛ゆえに、自分に課した制限があることを。


顔を合わせば小言を言われ、喧嘩をするくらいなら家を出た。
私はずっとそうやって、親に心配される自分と向き合わず、逃げてきたのだ。


それに気付き私は昨日の朝、母に電話をかけた。


「ちょっとお金を貸してくれないか」
今思えばオレオレ詐欺と同じじゃないかという内容を、一応テレビ電話で相談してみる。

「うちにはお金ないし、お父さんに聞いてみないと分からないよ」

あぁ、この感じだ。と思った。

何を相談をしても、「お父さんに聞かないと分からない」と言う母に、私は腹を立てていた。
それからいつも家族会議の中心にあった議題は、私の話だったこと。
「ちょっと来い」と言われるのも、色々聞かれるのも嫌で、だから家に帰りたくなかったし、いつも反抗的な態度を取っていたことも。


私さえしっかりしていれば、家族は円満になると、無意識にどこかでそう信じていた。
だからやりたいことをやりながらも、2人が笑顔ならそれで良いと、どこかで両親の顔色はずっと伺っていたのだ。


今こそ、「愛している」と認めよう。
そしてそれ以外を全て手放そう。


親に心配をかけまいと誓った、その誓いも、あの日の気持ちも、それによって生まれた制限も。

支笏湖での母と娘


よくやったね。もう十分だよ。


思い返せば、私が何をしてもしなくても、親に心配されない日はなかったのだ。
だからどうせ、何をしたって親は私の心配をするんだ。

幼かった私への両親の心配と、そんな両親に心配をかけまいと自分への愛を育み成長した私。
もうこれから先は、本当の意味での自立をするとき。
もう私は、身体的にも精神的にも大人になったのだから、「心配するならどうぞご自由に」だし、私はもっと自由に人生を歩んでいいのだ。


そう思っていたらその日の夜、父から電話がかかって来た。

「みんなで話し合おう」
と、やっぱり昔と同じように”家族会議”をしようとする父。
「何かあるなら話してほしい、いつでも帰って来ていいから」母は私にそう言った。



「違うの、私はもう子供じゃないの。」
そう心の中から声がした。



あぁそうか。
父と母の中で私は子供のままだったのだ。
そして私も今まで、二人の前では子供を演じていたのだ。

だけど、家族の愛に包まれて肉体は成長し、家族への愛の中で精神も成長して、私はようやく今、大人になったんだよ。

私は二人に、「心配しなくて大丈夫」では無く、「心配してくれてありがとう」と言った。
多分生まれて初めて、そう言ったと思う。

私の中で親の愛と、親への愛が、和解したような、そんな温かさと軽さを感じた。
きっとこの言葉を言うために、これまでの歩みと今の現実があったんだ。


もう私は自由に飛べるのに、いつまでも「家族が幸せにしてるかどうか」を基準に飛べないふりをしていたんだ。

家族への愛ゆえに、自分に課した制限は、もう要らない。
家族に対する様々な思いは手放して、これから先の人生は、ただ「愛してる」だけを持って行こう。

生まれてから、家族への愛に縛られず生きてきた日はない。
それを手放した私は、ようやく”本当の自分”で生きるスタートラインに立ったように思う。



假屋舞


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