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江戸城古写真と現在の皇居
明治元年(1868)に皇居となり、156年経った今の時代、 ”かつての江戸城らしさはどれほど残っているのか、どのようになっているのかを見つけに行ってみたい” そんな思いから探し当った明治初期の官僚・蜷川式胤が残した江戸城の古写真を基に、今現在の皇居から同じ景色が見られる場所は残されているのか、歩いて調べてみたいと思います。
旧江戸城写真帖
江戸城廃城後の明治4年(1871)に式胤によって撮影された写真集『旧江戸城写真帖』には、城内・外堀・各見附の写真計64枚が残されています。
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式胤が残した写真とその注釈だけが頼りで比定に苦労しましたが、現在でもほぼ同じ景色が見られそうな場所を選定し、10か所目星を付けました。また式胤が撮影した場所のほとんどが、現在では立入禁止の垣根の内側や石垣の上からの撮影、皇宮警察が常駐するバリケードの内側であることが多く、思っていた以上に難しかったです。
1 巽三重櫓
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ここは皇居外苑にある坂下門手前の蛤堀右端。原則すべてmicro4/3の28mmで撮影しています。
宮内庁施設が占拠する二の丸の南半分と三の丸にあった江戸城の防御施設は、大手門と桔梗門を残しすべて解体されています。
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見どころ
坂下門の東からであれば切り立った石垣と堀の優美な姿が見られます。また月に2回ほど執り行われる皇室行事『信任状捧呈式』では、儀装馬車が坂下門から出て新任大使を迎えに行くところが見られます。往路が坂下門、復路が二重橋の正門を通過します。
2 下乗門
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大手門と二の丸中之門の中間にあった下乗門は、現在大手三之門跡といい、右側は最近新築された三の丸尚蔵館です。門の内側と外側両方に番所がある珍しさもここだけ。
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みどころ
お城とは関係ないのですが、去年建て替えが完了した三の丸尚蔵館は、皇室の宝物を揃え、大部分が撮影可能です。私が訪れた2024年1月の時点では、公開されている展示室は2部屋のみ。また1階より上の階は解放されていませんでした。ウェブからの予約が必要。
3 百人番所
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中之門跡の手前の百人番所は健在。寺沢櫓があった場所は現在「枢密院旧庁舎」の駐車場あたりです。
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みどころ
百人番所の反対方向には、三之門渡櫓台座・銅門渡櫓台座と中之門台座が連なり、壁となって道の左右に石垣が現れる様子は壮観です。
4 中之門
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中之門跡の台座石は、一つひとつが大きく、並びの綺麗さも雄大さも素晴らしいです。左には多門の台座、この場所からは見えづらいですが書院出櫓(別名重箱櫓)の台座が今も残っています。ここから先が江戸城本丸になります。
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みどころ
中之門の石垣を抜け、さらに中雀門の石垣を通り本丸へ向かうこのアプローチは、江戸城の中でも特に防御施設が厳重な場所でした。全国の大名がその無数の櫓、渡し櫓、多門が入り組んだここを通おり、江戸城の威厳を目にしたことでしょう。
さて、中之門を進むとここからが旧江戸城本丸です。旧西の丸に当たる皇居宮殿エリアと、東御苑(旧本丸・二の丸・三の丸)は、宮内省の管轄なのでテレビ番組で取り上げられることも少ないためあまり知られていませんが、富士見櫓、富士見多聞、台所前櫓展望台、1/30スケールで再現された家光の時代の寛永期江戸城復元模型など、入場したり近づいて見られる遺構がいくつかあります。
5 台所前櫓
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台所前櫓跡は、現在「展望台」として唯一城内の高台から景色が見られる場所です。ここから西側には天守台やかつては二重櫓としては最大級の乾櫓が見渡せ、眼下には広大な本丸大奥がありましたが、今は植林も多く何も見えません。
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みどころ
反対側の東側からの景色は、眼下に二の丸庭園、遠方に大手町と丸の内のビル群、左下には白鳥濠が見えます。
展望台の場所は分かりづらいので見落とされがちなのですが、「本丸休憩所・売店」の背後にある狭い通路の先にあります。
6 天守台
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天守台西側には、本丸と西の丸を繋ぐ西桔橋門(にしはねばしもん)があるのですが、一般参賀や乾通り公開日を除き、通常非公開のためバリケードが張られ、ここより西側に進めないので、この位置からの撮影になりました。
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みどころ
現在の天守台は明暦の大火で焼失した後、前田家によって一回り小さく再築されたものです。防護柵がかなり手前に設けられているため、これといって景色はよくありませんが、上皇陛下もお若い頃ここからの景色を楽しまれたといいます。
7 下梅林門
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中央の白梅の木の先に下梅林門がありました。さらに坂を下った先にあるのが平川門です。建物や櫓渡門はありませんが、意外と台座の石垣や狭間へ向かう階段などがしっかり残されています。
8 上梅林門
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ここよりあと5メートルも後ろに下がることができれば、同じ位置から同じ画角で撮影できたのですが、入場を禁止する垣根があって残念ながら入れません。やむなく広角で撮ったため、上梅林門が遠のいてます。
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みどころ
梅林坂の坂下から坂上にかけて梅の花植えられ、梅見の名所になっています。太田道灌の時代には、ここに川越城の三芳野天神を祀った天満宮小祠がありました。後世平川門外に遷され、江戸時代初期に紀尾井町に遷されたのが今の平河天満宮です。
9 汐見坂
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二の丸と本丸を繋ぐ汐見坂、当時からすでに櫓渡門・櫓・多門が廃止され、簡易な冠木門だけが建っていたようです。ここだけは当時のままの姿で残っています。
10 二ノ丸御庭の池
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二の丸の池という説明だけで方角もさっぱり分かりませんが、中央に一本だけある高木と、その後ろの枝葉の広がる大木が似ています。またかつて池の中にあった島が現在の池を渡る遊歩道ではないかと思い、ここからの撮影と見当をつけました。
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二の丸庭園にあるこの「諏訪茶屋」というお茶室は、江戸時代までは西の丸(現在の皇居宮殿および御所地区)の吹上にあり、西の丸が形成される以前のそこには諏訪大明神が鎮座していて、それに因んでいます。
おわりに
蜷川式胤写真の秀逸さは、後世国によって保護される文化的価値のある天守台・石垣・櫓等と、何時かは無くなってしまう寂れた番所小屋や人間と(玉石というか物の哀れというのか)を意図的に合わせ撮影している点、そして当時は当たり前でも何時かは忘れられてしまうであろう名称や注釈をすべての写真に入れる丁寧さにあると思います。好古家であり、官僚としては取調御用係・御用書類下調係・博物局御用などに就き、上野の東京国立博物館の開設に尽力した式胤ならではの慧眼が垣間見える写真帖でした。
※式胤の注釈には○○櫓、○○渡し門という名称でしたが、記事中はわかりやすいように櫓は「○○二重櫓」「○○三重櫓」と形を表し、高麗門や渡し櫓とを分けず桝形全体を「門」で統一しました。