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地続きの世界で

 生きている人とは、会うことができる。
 会うことの可能性が残されていることこそが、誰かが生きているということの意味なのである。それは、実際に会うか否かということとは無関係なことだ。


長い夜空の向こう側に
君が本当にいる気がした

リーガルリリー「泳いでゆけたら」

 夜に空を見ていて、「君が本当にいる気が」するというのは、なんとも幸福な心地がするものだ。

あの娘が暮らす街まであとどれくらい?

スカート「あの娘が暮らす街(まであとどれくらい?)」

 必然の別れの末に、おそらくはその道中にか、あの娘が暮らす街までの距離を思う。最後に2度、ロングトーンで叫んで、この曲は終わる。


 家の近くに少し大きな通りがいくつかあって、夜中によくそこを散歩する、そのときに、誰かを想うことがある、それらの通りにいると、その誰かとのつながりを感じることができる。
 道、たしかに象徴的だが、それよりもむしろ、電線を見て思う。電柱が無数に立つ、その間を電線が渡っていて、道筋は、どこまでも、どこまでも続いている気がする。誰かを想うとき、この道筋は確かに、「長い夜空の向こう側」までつながっている気がして、その距離の果てしなさも、しかし同時に、そことこことが、たしかに地続きであると感じるのだ。
 それは、物質的なつながりである、だから、無線ではならない。この線を辿った先に君がいるのだと、目に見えるその線が肝心なのだ。

 可能性というのは、能力のことだけじゃなくて、それが原理的に可能であることをも指す、実際にやるか否かということではなくて、やろうと思ったらできると思える、その安心のことを指す。電線が私に与える可能性というのは、この線をずっと辿っていけば、君に会えるのかもしれないと、そういう可能性のことだ。この可能性は、道を歩くことよりはずっと非現実的で、それでいて、道を歩くように可能的で、道を歩くよりも夜空に広がっている。

………

 高校のとき、近所の友人が、学校から家までを自転車で往復したことがあった。電車で1時間近くかかるから、決して近くはない。
 彼はそれをしたあとに、地面がつながっていることを感じたと言っていた。あるいはこの言葉は、どこかを長時間歩いた俺が思ったことだったのかもしれないが。電車で通ってきた道、とびとびでプロットされていた地図が、本当はつながっていたと実感するということ。自転車をこいでいた彼は、その地面の細やかな機微までをも感じ取りながら、その距離を噛みしめていたように思う。

 体力が、時間が、そういったことを抜きにして、原理的に歩くことが可能である、自転車で移動することが可能であるという、その実感が、街を自分のものにさせる、その実感が、自分を街のものにさせる。

 あの娘が暮らす街までどれくらい?と叫んでいるとき、彼はその距離の果てしなさを感じている、しかし、その距離を感じることができるのは、あの娘と自分とが地続きの世界に生きていると思えているからである。
 君が本当にいる気がした、と夜空を見上げているとき、彼女は果てしない距離の先、長い夜空の向こう側にいる君と、地続きの世界にいることを実感している。その距離を埋めるか否かという話ではない、その距離を埋めることの可能性が手許にあるかどうか、ということなのだ。可能性が、希望なのだ。

 地続きの世界で、私たちはいつも、一人ではない。自分が街の中にいて、その街と地続きの場所に、誰かがいる。

……

 過去は、現在から切り離されて初めて過去となる、そして切り離す前にあるのは、幅のある現在、つまり私たちは、切り離されて堆積した無数の過去と、大きな幅を持った現在の中を生きる。では、過去とは無縁になるかと言ったら、そんなことはなくて、現在から切り離された過去は、身体を介して地続きなのである。

 あの時は、現在ではなく、この身体が生きている時間ではなくて、でも、現在と地続きの時間だから、私はあの時と同じ人間でいられる、そして、この身体を辿れば、あの時間にも到達できる、可能性がある。

 他者と共有した時間は、互いの身体を介して、地続きになれる。空間と同じように、時間もまた、私たちは地続きの世界を生きている。

 でも、歩いてゆくには果てしない距離がある、身軽にその距離を埋めるために、たかはしほのかは、泳いでゆくことを選んだのかもしれない。

………………


 わたしは、ここにいて、この現在を生きている。
 あなたは、どこにいて、どの現在を生きている。


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