訪れ、去り行くセブンティーン
叩き方が良くなかったのか、高2の頃はドラムスティックを大量に折ったものだった。17歳だった。亡骸はキャンプで燃やした。
バンドを始めた17歳の頃の気持ちを、バンド結成10周年の節目になって曲にした、ということだった。
勢いがよくて気持ちいい。走り出しの最初の速度を感じられる。何もわからずに走ってみたところ、気づいたら今だった、と。漠としたものに、追い立てられて、追い立てられた気がして、足を速める17歳がある。
あるいは停滞してぐるぐると考え込む17才もある。行き場のない欲望はどこかに勢いよく放たれるでもなく、同じ場所で足踏みをする。その滑稽な姿を笑うことなど、誰ができようか。
あるいは、喜びに満ち溢れた17才がある。生きていることを、そして生きていくことを、嫌というほど実感せしめられる頃、そこに大きな苦しみと大きな喜びとが両立することは、何も不思議なことではない。
「空も海も見つめるなかで」が「空も海も見つめるなかれ」と聴こえていた頃があった。なんと独善的なと思っていたら、実際には遥かに開かれた幸福の中に身を置いているようで、ひどく驚いた。
ところで、「じゅうなな」と「セブンティーン」には決定的な違いがあるように見える。
0から素直に数えていったときのじゅうろくの次の数という感じ、「10+7」という構成は、実際のところ、当の17才にはしっくり来ないのではないかと思う。一方の「セブンティーン」に含まれる「ティーン」とは、単に「ten」なのではなく、「teenager」の「teen」として強い意味を持っている。若さの真っ只中、泥沼の、葛藤の真っ只中としてのニュアンスが、セブンティーンという言葉からは暗に感じられる。
走り出す、停滞する、生の実感を得る、それぞれの17歳がある。
思い返すと、確かに17歳とは、焦燥感と幸福と、それらが抱き合わさった葛藤があるような時期だった。
そして、私たちには、もうひとつの17歳がある。
つまり、離れゆくセブンティーンである。
若さと葛藤の渦に飲まれていく17歳がある、この苦しみから解放されたときに残されるのは、紛れもない自分の命が手元から離れていく焦燥、これなのだ。悶えている手元には確かにあったはずの生が、自分のためだけにあったはずの生が、指の間から零れ落ちていくことに絶望せずにいるには、どのようにしたらいい?
どれほど踏ん張っても流れ去る時間がある、否、時間を前にして踏ん張ることなどそもそもできない。そう、指の間から零れ落ちていくものとは、まさにこの時間のことであったのだ。
零れ落ちた時間は、記憶の山を作る。私たちはただ、ふと、その山から一握の砂を拾い上げて、時間を流し直すことしかできない。
記憶に縋る。記憶にしがみつく。記憶を繰り返す。悪いことではない。しかしきっと、健康なことでもない。
自分の手元にあったはずの確かな生が崩れ落ち、堆積した記憶を少しずつ拾い、指の間を滑らせ、そのようにしながら、自分自身は崩れ落ちた後の細く頼りない残骸を生きる。これが、大人になることだとしたら……
いや、大人になるというのは、本当は、そういう若さへの美化から距離を取っていくことなのだと思う。
しかし、まだ俺は、どこかに取り残されている。取り残されながら、セブンティーンからの距離は確かに開いていく。
辻
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