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不健康診断

ピピピ…


アナタハ…フケンコウ…デス。

ツギノ…シジニシタガッテクダサイ…


今朝の夢の中でロボットというかエイリアンらしきものにカタコトで言われた。変な夢だ。



年に一度、雇用されている従業員には健康診断が義務付けられている。35歳以上になると診断項目も増える。

よく上司が言ってる。

「俺はいろいろ病気してひっかかるから、これは健康診断でなくて不健康診断だ。」


従業員へのストレスチェックも義務化適用範囲が拡大されており、ますます健康というワードを見かけることが増えると思う。



健康ってなんでしょう?


経口による栄養摂取だけで測れるものだろうか?

もちろん心理的な負荷も関係あるが、それ以上に今置かれている状況が客観的に適応できているかどうかの判断を認識できているかが重要ではないかと思う。

そこまで現代の技術ではわかりかねる。

未来永劫もわからないと思う。


今日ふと思ったのだが、AIが人間より勝っていることって思ったことをそのまま伝えられることだと思う。我々人類は思考を一度言語化して伝達するが、例えば喜怒哀楽入り混じる感情を直接伝えようとしてもそれを形容する言葉がなければ伝えられない。せいぜいこの感情に至った経緯を説明し擬似的に体感してもらうだけだろうが、AIは思ったことをは数値としてそのまま伝達できる。AIは遥かに言語化しにくい情報も瞬時に理解できる。

だがそれを人間の言語に置き換えるときに適切な用語がなければただの数値の配置にしかならない。

その意味ではまだ人間が勝っていると思う。

私は子どものとき、エビが食べられなかった。

頭を外して食べるという残虐な行為ができなかったのだ。両親からは「こんな美味しいものを食べないなんて」と言われたが、エビの気持ちになると食べられなかった。

ついには泣いてしまうも、祖母だけが「エビさんがかわいそうやってんな」と慰めてくれたのを覚えている。この例のように幼いため語彙が少なくエビが食べられないことが自分でもわからなかったが、祖母が察して声をかけてくれたおかげで「エビがかわいそう」という理由がわかったのだ。

このような空気感や察するものはまだ人間に分があると思う。


今、私の中に三人の私がいる。

考える私と、身体を操る私、そしてその会話を見つめる私

それぞれがそれぞれの空気感を出しながら話し合うが、ときに言語化し、ときに察し合いながら…

この三人はときどき二人にもなれば一人にもなる。

私の中の私たちでさえ、ときどき言語化できず伝えられず行き詰まる事がある。


なのでいつも引っかかるのが

心の健康ってなんだろうって思う。

眼の前のことに集中できる状態のことを言うなら健康だろうが、例えば失恋したばかりの人は集中できるといっても心はざわついているし、身近な人が亡くなった場合だと集中すると言っても、「生きる」ことに集中することくらいしかできないだろう。さっきの三人の私の例でもそれぞれ三人とも心理的な健康診断をするのだろうか。

結局のところ、心の健康って代わり映えのない退屈な日常の中で作られていくのかなと思う。

だから人はルーティンの中で生き、自分を見失わず自分らしく生きれるのだと感じる。

日常習慣を固定化するから罠を仕掛けられる。

映画「イノセンス」より

医者は人の身体は治せても、歪んだ心の底までは治せない。

ブラック・ジャック「灰色の館」

※画像は少し早い春の足音を見つけたので…

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