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命日
数日前の早朝、ある人が亡くなった。
あまりにも若すぎる死であった。
今朝、別れの挨拶をしてきた。
顔に触れると冷たくなっている。
この冷たさが死か。
死はなんだろうな。
・現代社会は死を避けている
・死は非日常などなど
これら一切は街で夢見る青年のたわ言であり、都市で死を捨象した結果大きな絶望しか生み出さない。
その中でよく戦った。
「心臓が止まるかもしれない」
と彼から言われたが死への恐怖は小さな身体の彼には不釣り合いなほど大きい感情だっただろう。
世の中に希望だの、他者との共存だのは、全て自分の「生」への意味づけで、それをしたことで一瞬心が軽くなる快楽を繰り返すうちに依存していき、ついには「死」を引き合いに出さないといけないほど自己を追い詰めている。
自分のことを文字にしないと他人へ伝えられないことに重きが置かれ、自己も言語化できずカオスの中で他者への快・不快の基準で人間関係を作ろうとする…
これは明日死ぬことを考えない、時間がある人の贅沢な悩みだ。
つまり私含む青年は時間を持て余し、余りあるエネルギーを「生」への意味づけに割き、それを他者へ伝えるために言語化する。
言語化することは論理的に説明するはずなのに、カオスな内面は他者に対する一次的な感情(好き・嫌い・良い・悪いなど)を基準にし、結果友達なのにしんどい人だったり、気持ち悪いのに好きという人だったり、好きなのに会いたくない人という身勝手極まりない、それでいて肥えた贅沢な人間になるのだ。
「死」を避け続けた結果、「生」が空虚な存在となり、そんな意味を見いだせないまま自我を確立させるために他者を必要とし、結果居心地の良い他者だけを求めている。少しでも居心地に違和感を覚えたら新たな居心地の良さを探す。
まるで「生」を目の前にぶら下げ、他者への感情という底なしの餌を与えられている家畜のように見えてしまう。家畜も暇だから言葉を用いて外面だけでもキレイに説明しようとするものの腹の底では別のことを考える。
これって日々を生きてると言えるのか。
他者の中に自己を見出すことに囚われすぎて、なりたい自分ではなく、他者からよく見られたい自分になってないか。
真の自分はどこにあるのか。
他者の中で生きる自分を見出すために、周りを心地よい存在ばかりにした先に何があるのか。
ヒトラー顔負けのむき出しのエゴで作り上げる人間関係は、とても心地良く、言葉がなくても蜜のように空間を埋め、結果無意識に他者を排除することになる。
排除された人からの言葉で
「私も傷ついた」
と心地よい人間関係の巣に戻り、
「私は悪くない、悪いのはあっちだ」
という荒唐無稽な論理で排除した責任を逃れようとする。
心地よい人間関係は、詰まるところ全体主義の始まりになるのではないかと危惧している。
最近職場で感じる重い横のつながりから「小さな全体主義」が産声をあげないか心配になる。
脱線したが、彼にとって「生」は生きることだった。弱っていく身体でいつ死ぬかわからない恐怖の中でも生きていかねばならぬ現実に寄り添ううちに、不思議と「生」を体現しているように思えた。
彼には時間がなかった。
生の意味づけ自体が無意味で、その時を精一杯楽しみながら生きていた。
一度彼に私の人間関係の悩みについて相談したら
「うつ病と自分で言う人ほどうつ病でないように、それを話せるうちは大丈夫」
頭が上がらなかった。
最後、彼は死への恐怖感から不安定になったが、彼と一緒に過ごす空間と時間は不思議と心地よかった。
両親から言われた言葉が木霊する。
「Yのこと、忘れないで」
忘れるものか。
精一杯生ききった彼の姿から学ぶことは多い。Yくん、ゆっくり休んでください。