100が1になってしまう言葉のお話
■じつは100ある
人があたまのなか(というか、たぶん「心」のなか)で思ったり、感覚したり直観(Intuition)したりしていることを100とすると、それについてちゃんと意識に引きつけて考えようとしても、あたまのなかでは100が10になっちゃったぶんの言葉でしか意識的な思考はできないんだという。
さらに、もっとしっかりと考えようとして文字に書いてみると、文章レベルでは1になってしまうらしい。
100のものが、自分が書いたものとして目で見ると1しかあらわれてこないという限界について、これはちょっと笑えるほどキモチいい極端なことだなぁと感心してしまった。
……という、この話のリソースは藤本義一で、彼の本をいつだったか立ち読みしたときそのことだけがくっきりとこちらに迫ってきた。たしか川島雄三のことを書いた本だったと思う。川島監督は脚本を書きはじめていた藤本義一に「それでおまえはプロなんだから、せめて1.2くらいは言葉にしようとがんばりなさい」みたいなことを言ったらしい(このくだりはあんまりよくおぼえてないので、もしかすると「プロでもせいぜい1.2なのだから、言葉でできることはそのくらいでいいんだ」というニュアンスで、何もがんばる必要のない話だったのかもしれない)。
がんばるかどうかはともかく、100が10になり、1になってしまう次元の下降については、科学的な裏づけなんて関係なしに、やっぱりすごくすっきりとしたキモチよさを涌きたたせる。
こういうことは、ああそうなんだと知恵として持っておくだけで、ゆとりがでてくるような気がするし、かんたんに人をあなどったり、話すことにあきらめたりするものではなくて、誰かと話しているとき話されていることのかんじんなものは案外その話の外にあるのではないかと漠然と視野を広げるところに、自分が流れだしていくようなうれしさがあるのだと思う。
100が1になってしまう<書くこと>の限界について、「せめて1.2や1.3に引き上げる努力」というのがあるとしたらどういうものだろうかと考えてみると、それはテキストの精度を上げていく明晰性にかかってくることだろうと思われてくる。
それで明晰性とか、精度といった態度にがんばりはじめると言葉を出すまえにあった純粋な動機が死んでしまいそうなので、明晰研鑽はほどほどにしたいと思う(プロとして書こうというときにこの「ほどほど」という折り合いりのつけかげんは自信がないかぎり地獄のように抜け出せない怖さがあるとは思うけれど)。
そして明晰性とは逆の、100の動機へ戻るベクトルはどういうものかというと、100が10になってしまうプロセスとは逆の運動を意識的にやっていく、というようなものになる(あっさり言った)。
読者にも、言葉にして思ったことのない90が心に存在しているのだ。
自分にも相手にも、光を当ててたしかめてみたことのない90があるのだとしたら、最後まで光を当てないタイプの言葉の組み合わせで90を刺激して、やがて総体として100が(読み手のなかで)なんとなく浮かびあがっていくというふうに書けないものだろうかと思う。これは書き手が1人で背負う問題ではなくて、読み手への信頼が前提になる。おおげさにいえば、自分と世界との信頼が前提になる。過小評価された世界には、1.2の精度にしのぎを削る息の詰まる限定しか残されないと思うからだ。
誰もが自分が出せる言葉(という1)より三桁くらい巨大なスケールのコンテンツを上空のクラウドの無限ストレージに置いていて、対話というのは相互に上空のクラウドを1としての指で示しているだけ、それでいい。肝心なのはクラウドのなかにある100なのだ。そこをこそお互いに感じようとして1を手懸かりに100を思って象の腹のようなたっぷりとした空を見上げるのだ。
■さあ<語り>をはじめましょう
それで、コトではなく葉のほうを使って90を刺激していくとき、成果を一番左右するものは、<語り>だと思う。
<語り>というのは小説でいう「文体」のことだと勘違いされやすい。
文体は文章のスタイルのことで、作家のユニークネスや作品の様式にともなってあらわれてくる語彙や話法や修辞のことだけど、私が今思っている<語り>というものは、話す態度みたいな運動のあり方を指す。
小説が不思議なのは、誰かの考えを知らされるのともちがうし、つくりものの「お話」を聞かされるのともちがう、といってわたしたちが共有する日常や歴史を延長していくのともフェーズのちがった、いわば何からも異質なディスクールであるという点にある。
たとえば司馬遼太郎が、あれほど膨大に事実(fact)を蒐集し、事実(truth)に縛られながら「これは小説だからできることだ」と熟練の職人のようにどっしりと構えて『坂の上の雲』を書いたのは、小説というものは何でもないからだった。何でもないところにいられる状態を知りつつあることが作家の書きつつある状態で、そこに彼の<語り>というものが生まれていられる。
しかしまたたとえば川上弘美は、わたしたちが思っているような現実とそれ以外のものとの境界を、物語の開始早々、淡々と不毛にしてしまう。まず、それが運動のはじまり方になる。<語り>は物語よりもずっと自在で魅惑的なものだ。物語すらわたしたちを空々しく制約する現在という時代のなかで、いまでも生まれることができるのは<語り>なんだと思う。
そしてそれは、90へ向かっていくためにも、けっこう有効な手だてなのだと思う。
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