墓参り考 《映画『一ノ関』を巡って》
10月は、さまざまな国で自作が上映されます。
いちばん近いものでは、10月6日からイタリア・ミラノで上映される『一ノ関』という作品です。
こちらは、母のお墓参りの様子を記録した短いドキュメントになります。
近しい人間の死というものは、第三者にとっては殆ど興味を惹かない領域のひとつですが、それでいて誰にでも起こる普遍的なテーマでもあります。
大物政治家の死、著名なアーティストの死、戦争に巻き込まれた子供の死――。
世の中には無数の死があります。その一部はセンセーショナルに報道され、日々消費されてもいます。人間の死に優劣はないと思うのですが、ことマスメディアにおいてはそうではないようです。
そういった傾向への抵抗として、私は私なりに、映画というメディアで「墓参り」という行為を描こうと思い至りました。
しかし、反発だけが契機となったわけではありません。
リュミエール兄弟などの古い作品を観る時、私は映画を観ていると同時に、彼らの「墓参り」をしていると感じることがあります。「墓参り」は、一度きりで終わるものではなく、二度三度と訪ることで実感が備わってくるものです。つまり消費というスタイルとは相容れないという意味では、私の常なる制作態度と矛盾しないもののようにも感じられたのです。
作品の内容は、岩手県一関市に「墓参り」に行く遺族が、厳美渓名物「郭公だんご」を食べ、硝子工房に寄って帰るという非常にシンプルな構成をとっています。
「郭公だんご」とは、籠にお金を入れて木槌で板を叩いて注文すると、だんごとお茶が籠に入って降りてくるというもので、巷では「空飛ぶだんご」とも呼ばれています。だんごは三本入っており、「あんこ」「ごま」「みたらし」の伝統の味が楽しめるものとなっています。
墓参りの際に、父親がショベルを二回鳴らすと、何処からか一匹の羽虫が飛んできて背中に張り付いたまま離れません。その様子を見た私が、母が羽虫になって飛んできたんじゃないかと思うという、それだけの話なのですが、映像文法的にはやや凝ったこともしています。
この映画におけるカラーグレーディングは、「郭公だんご」の1カット以外は、モノトーンに近い3つの色彩で構成されていますが、それはだんごにおける「あんこ」「ごま」「みたらし」を反映したものになっています。(伝統の味が楽しめるかどうかはわかりません)
また、元映像素材は、私には珍しく4Kで撮影されていますが、編集後、暗室で再撮影し、硝子工房よろしくガラス越しに撮影されなおしています。
これらの調整により、映像は工芸品のような質感を伴い、やや見ずらいかたちにはなりましたが、映画のモチーフに過ぎなかったものが文体へと置換され、物語のエピソードに過ぎなかった情景が、映画の構造の絵解きとなっています。
また、出来上がった映像の再撮影には「反復」という側面もありますから、この映画は、映画自体を「墓参り」している状態といえます。
こういった重層的かつ晦渋な作為は私の十八番でもありますが、消費にふさわしい工夫ではないため、労力の割に分析されることも少ないのですが、イタリアのプログラムディレクター達が余興で拾い上げたとは思えないので、より一層の晦渋なる表現へ突き進む勇気をもらえたように思います。
Grazie!
ちなみに、「About the filmmaker」には、リュミエールさんではなく、昨年ルーアンを訪れた際に撮ったマルセル・デュシャンの「墓参り」の写真を使っています。
「映画の細胞」(デモ版)の入った試験管も持っています(笑)
In recent years, he has presided over "eiga no saibo", the smallest film festival by one director for one audience, rethinking the conditions under which films are made.
最近、国際映画祭で必要とされるプロフに「映画の細胞」のことを書くのが結構楽しかったりします。(誰も似たこと書いてないから)
"Ichinoseki" sarà proiettato a Milano 20100, Lombardia, Italia dal 6 ottobre.
È un piccolo pezzo d'arte in vetro. Se ti trovi in zona, dai un'occhiata sicuramente!
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