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『他人の花』

男は道に迷っていた。
かれこれ半日は歩いている。
どこまで行っても同じ景色。白線とエメラルド・グリーンのフェンスが延々と続いている。人の気配はない。

しばらく流離っていると、フェンス越しに奇妙な花を見つけた。

螺旋の花弁は透明に色づき、豆電球のアンカーとフィラメントによく似た銀色の雌蕊と雄蕊が、手招きするように風に揺れている。

物珍しかったので、男は写真を撮った。
そして、それを最後に男は消息を絶った。

旧友に呼ばれて、ぼくはある貸しギャラリーへ来ていた。

久しぶりに会う女友達は、黒を基調としたシックな服に身を包み、どことなく物憂げな気配を付き従わせていた。

「遅かったね。電車混んでた?」
「いや、ちょっと道に迷っちゃって」
「やだ、虹森くんみたい」
「あ、そうか。蒸発しちゃったんだもんね」
「うん……。まぁ、その代わりっていっちゃなんだけど、ほら、これ」
「あ、えっと……。これは、絵として観ればいいの?」
TinyTVはね。でも、どちらかというと、映画として観てほしいかな」
「ふーん。結構要素多いけど」
「まぁね。一応は、彼の遺作だから」

長大なキャンバスには、瞬間的に定着された筆致が、フラクタル状のパターンを醸成していた。目を凝らすと、先に紹介した行方不明の男、虹森閉開(にじもりとじあき)氏が撮影したと思しき写真や動画データの数々が画布に直接埋め込まれている。その幾つかには、虹森氏の家族や友人や彼女自身の姿が映り込んでおり、そちこちでループしていた。

「自分の動画って、見せるの恥ずかしくない?」
「別に。動画は私自身じゃないから」
「そうなんだ。ぼくは嫌だな。なんか、全部消したくなっちゃう」
「そう?」
「自分が嫌いだからかな。これは、いつ頃の写真?」
「どれ?」
「この、青いやつ」
「あー、夏。水族館にタツノオトシゴの雄を見に行ったの」
「何で?」
「何で? うーん……。忘れちゃった」

絵の具の海の中でループしている動画データには、それぞれに小さな物語があるらしかった。

たとえば右上のものは、渓流釣りに行った際、「熊に注意!」の看板を見つけた虹森氏が、独特のタッチで描かれた熊のイラストに愛着を抱き、至近距離から撮影をはじめた時のものだという。だが、ピントを合わせている途中で森の木陰に本物の熊を発見した虹森氏は、這う這うの体でその場をあとにした。その時彼が感じたであろう緊張及び動揺は、激しい手振れとなって具(つぶさ)に記録されている。またその振動を擬えるようにして、チューブから捻り出したままの絵の具がキャンバスを走り抜けていき、次なる映像、別な思い出へと紡がれてゆく――。

「あ、わかった。素材ゴミだと思ってるでしょ? ミクストメディアっていう名の」
「そんなこと思ってないよ。ただ、ちょっと懐かしいなって」
「絵の具がね、接着剤の役割を担ってるのよ」
「映像の視聴形式としては新鮮かもね。この観づらさが反時代的で。ただ、インスタレーションとしては、どうなんだろう」
「古い?」
「ちょっとね。あ、いや、冗談」
「いいよ、別に」

もしここで、ぼくが冗談ではないかたちで批評していたとすれば、次のような欠点を論(あげつら)うことになっただろう。

映像を観ようとすると絵具が邪魔をして、絵画を観ようとすると映像がチラついてくる構造は如何なものか。
この作品を単体の絵画として鑑賞した場合、抽象表現主義の劣化コピーに過ぎないのは明瞭で、映像のほうも、それのみとして観直するに堪えうる完成度をもってはいない。
そういったクオリティの低さを隠蔽するかの如く、絵画でも映像でもない、どっちつかずの曖昧な領域、つまりアートという名の「大義名分」を押し付けるやり方は悪質で、あまつさえ既視感に満ちている――。

「制作意図は?」
「それは……。彼に聞いてみないと」

ぼくは念のため、ギャラリー内をぐるりと見回してみる。コンクリートの壁面には、同工異曲の絵が数点並んでいた。天井付近には、剥き出しの配管が縦横に伸び、時たま淀んだ音を反響させている。非常口階段付近に、ちらと人影が見えた気がしたが、よく見ると自分の影で、虹森氏の姿は何処にもなかった。

ぼくは慎重に尋ねなおしてみる。

「何かヒントをくれよ。半分は君の作品だろ?」

すると、女友達はキャンバスの中心らへんを指さし、何処か遠くをみはるかすような眼をしたまま話題を変えた。

「虹森閉開ってペンネーム、どう思う? 私は好きじゃないな。だって本名は全然違うじゃん?」
「確かに」
「笑っちゃだめよ」
「いや、なんか、サラリーマンとかにいそうだよね」
「そんな感じよね。いや、笑っちゃいけないんだけど」
「だめですよ、笑っちゃ」
「でもさ、作品より、ペンネームのほうが引きがあるってどうなんだろうね?」
「まぁ、キャッチコピーとかは、そういう勝負だから……」

「虹森くんは、多分この花を見て以降、何ていうのかな。ちょっと花に憑りつかれちゃったんじゃないかって思うな」
「そんな珍しい花ですかね。これ」
「珍しいとかじゃなくて……」
「この中央にある、ちっちゃな点みたいなやつですよね?」
「そう、まさに、遠近法の消失点にあたるわけだけど。何の花かわかる?」
「いや、おれ、花は全然詳しくなくて……」
「調べても出てこないのよ」
「そうなんだ」
「だけど、この写真を撮った頃から、虹森くんのスマホのデータが急激に増え始めてるのよ」
「へぇー。なんでだろ」
「不思議でしょ。残されたメモやなんかから推測するに、どうやら彼、この花を求めて旅してたみたいなのよ。最初は近所の原っぱ行って。次に地方を探して。それでも見つけれれなくて、最後は海外に行って……」
「行方不明になってしまった」
「……わかんないけどね」
「警察には相談したんですよね?」
「もちろん。でも、結局分からず仕舞い。で、残されたのが、ここにある写真や動画なんだけど、ご両親がね、見てると辛くなるっていうの。だから、私がもらって――」
「有効活用したってわけかぁ」
「そうそう。でも、作りながらいろいろ考えたわよ。なんで虹森君がこの花に執着したのかとか。花の中に何を見たのかとか」
「うーん、そこまで凄い花のようには見えないけどなぁ」
「花の中に、見たのよ」
「何を?」

ぼくはやや拙速に過ぎたのかもしれない。その証拠に、彼女は押し黙り、灰色の横顔にまたぞろアンニュイな気配を漂わせはじめた。

―――――――――――――

どれくらい時間が経っただろう。
人気のないギャラリーには、沈黙のみが躍動している。

虹森閉開氏の恋人である前、彼女はぼくの恋人だったはずだ。
その証拠に、クールベの「世界の起源」とそっくり同じアングルで撮影された彼女の極秘映像を観た記憶がある。どうしてそんなものを共有したのか今では覚えてないが、双方に恋愛感情か性的関係があったのだろうと思う。

その後、ぼくは別の女性と付き合うことになり、「世界の起源」は自宅のHDのどれかに厳重に格納されたわけだが、たった今までそのことを忘れていた。

彼女は覚えているだろうか。

抽象画の背後に鎮座する小型PCからは、間断なくファンの音が流れ続けている。

「タイトルを決めるまで、結構悩んだのよ。最終的には、『他人の花』にしたんだけどね」
「どういう意味?」
「わかんない。彼が残した膨大なメモの中にあった言葉なのよ。それがこの花のことを指してるのかどうかわかんないけどね」
「『他人の花』か。ちょっと意味深だね」
「遺品を一ヵ所に集めたら、彼の輪郭っていうか、全容みたいなもんが見えてくるかなって思ったんだけど、完成して見えてきたのは、むしろ赤の他人で。そういう意味じゃ、的を得たタイトルかなって思う」
「探偵みたいだね」
「そうね」
「君も知らない虹森君がいた……」

尋ねながらもぼくは、本当にしたい質問を、ひた隠しにしている。
彼女は虹森氏にもクールベの「世界の起源」を見せたのだろうか。

「他人の思い出アルバムって、開くとドキドキしない? なんていうか、禁忌を犯してるっていうか」
「え?」

「禁忌」というもの珍しいワードを直に耳にしたせいか、あるいはそれが「世界の起源」を暗示するように響いたためか、ぼくは自分でもびっくりするような甲高い声を上げて驚いていた。

「どうしたの?」
「いや、別に」

いいながらもぼくは、「世界の起源」を開示した頃の彼女を懸想していたことがばれてしまったのではないかと、かなり焦っている。

「プライベートなものだからね……」
「そうね」
「ほら、デジタル・タトゥーって言葉があるじゃん?」
「あー、うん」
「色んなことが簡単に記録されて、同時に共有される時代にもなっちゃったからさ。今は逆に隠したい、秘密にしたいみたいな人が増えてる気がするんだよね」
「あー、確かに。最近テレビもすごいもんね。街も人もモザイクだらけ」
「ああいうのも個人情報だからね」
「そのうち何も映せなくなるわよ」
「大丈夫。生成AIがあるから」
「あ、確かに。不祥事も起こさないし」
「うん。で、誰でもない人、存在しない人のほうが価値が出てくる時代になるんだよ」
「存在したら負け、みたいな」
「そうそう」

駄弁りながらも、ぼくは彼女とちゃんと向き合うべきなのではないかと感じはじめていた。

物憂げな顔を今一度見つめなおしてみる。額や首の表面に、化粧では補いきれぬ老いの兆候が現れはじめていた。モノトーンの服はよく見ると喪服に似ている。やはり、あの頃とは違う。彼女もぼくも、まったくの別人になってしまった。

「記録って、考えてみれば結構不思議なことだよね。生きてることも。だってそれって、二度と起きないことかもしれないじゃない? だけど、その反面、すごくありふれていて、顧みられることもなくて、そのままにしてると消えてしまって、二度と戻ってこない――」

「そう考えると、確かに不思議だね」

いいながらもぼくは、性懲りもなく「世界の起源」を懸想していた。正確には、同作品と瓜二つのポーズで横臥する彼女のあられもない姿を。

「私たちも、いつかこの絵の一部になってるといいわね」

ぼくは返答する代わりに、あらためてキャンバスに視線を投じた。
相も変わらず何の感銘も受けない。
そんな自分に驚かされる。真摯に観ようとすればするほど、特にこれといった感慨もない自分に心底驚かされる。

「他人の花」は、今もフェンスの向う側にひっそりと咲いているのかもしれない。


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