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『ぬし』
さざなみをなぞりながら、だんだんとそれていく音色が、耳の奥から鳴り響いてくるようにきこえる時、耳は巻貝であったころの記憶をとりもどしているのだ。
リスボンのみなとから、南極大陸で調査活動をおこなう捕鯨船に乗りこんだわたしは、当初の目的を忘れ、ひねもすオカリナの音に酔いしれていた。
「おい新人。あんた変わってるな。さっきからずっとトビウオを見てるじゃねぇか。そんなに食いたいならいっちょう揚げてやるぜ?」
太ったコックが、くすんだロックグラスによどんだ液体を注ぎ入れながら、わたしに問いかける。わたしは首をふり、徹夜明けの重たいまぶたをなおも海に向け続ける。それを見るなり、黒ずんだ前かけに手をこすりつけながら、コックは吐き捨てるようにいった。
「ケッ、てめぇもおたずね者のたぐいか」
水平線から太陽が顔をだし、空がだいだいに変わりはじめるころ、演奏がおわった。
「おれは、海が奏でる交響曲に返答すべく、ヘサキから朝夕かかさず即興演奏することにしてるんだ」
そういうと、水先案内人のラムジは、ふり返ってわたしをみた。つたない外国語でたどたどしく応答する。
「つまり君はこういいたいのだね。そのオカリナで海にメッセージをおくれば、海がわたしたちのためにいくばくかの獲物を連れてきてくれる、と」
ラムジは、りゅうぜんこうから削りだしたという乳白色のオカリナをコートの胸ポケットにしまい、代わりに塗装の落ちた赤茶色のパイプを取りだし、波間に吸いがらを投下しながら、長い足でコツコツ甲板を鳴らしながらやってくる。
「やれやれ。捕鯨船って話を真にうけたのか? ぐどんなやつだなぁ。ちょっと観察すりゃわかりそうなもんだろう」
「何がだ」
「この船はな、囚人船なんだよ」
魚倉の向こうから、げびた笑い声がもれる。ラムジは、いったんくわえたパイプを再度くわえなおし、ちいさな声でささやく。
「発言には気をつけたほうが身のためだぜ? ここには頭より先に手が動く輩がぎょうさんいる。いつの間にか消えてたなんてやつも、ひとりやふたりじゃねぇんだからな。もっとも、氷山にぶつかっちまえば、いちれんたくしょうだがね」
「してみると、君の演奏はレクイエムか」
「気晴らしだよ。どうにも口さびしくてね」
「その割に、ねんきが入っていたようだが」
「誰もきいちゃいねぇよ。おまえもやるか?」
ふいに、ラムジがパイプを手渡してよこした。
「なかなかどうして骨董品だねぇ」
「何かくわえてないと、えんえんとおしゃべりするんだ。うるさくて寝れやしないって、みんなから苦情がくる」
試しに吸ってみると、苦みがつよく、どうにもむせてしまう。
「何の草だい」
「酒樽のふた」
「どうりで不味いわけだ」
魚倉に、再び粗野な哄笑がおこった。
海の吐息が船に吹きかかると、泡立ったしぶきがいかくするように甲板にとどく。
しばらくすると、二等運転士デメニギーの号令がかかり、後尾甲板に乗組員らが集結した。数人の水夫が、暗い面もちで甲板をみがき、帆をかかげおえる。ついで何を思ったか、互いの衣服をはぎ取るような動作をはじめた。
「あれは、何をしているのだい」
「月一の寒中水泳さ。船の裏に“ぬし”がきちゃいねぇか調べさせるんだ」
「“ぬし”?」
「船長のコダイモウソウだよ」
水夫たちは、準備体操を終えると、助走をつけて、いきおいよく海底へ飛びこんだ。青緑色の水面が花火のように鳴って、白く砕けちった。
「極寒の海でも11分は持つらしいぜ。人間てのは、ぞんがい丈夫なもんだな」
水夫たちは、踊るように波間をゆききしていたが、やがて舟虫よろしく錨にくっついて、口々に叫び声をあげる。
「おぉい。もういいだろぉ」
「そろそろ上げてくれぇ」
いかつい面持ちの乗組員が鼻歌まじりにウインドラスを操作して、霜のおりた錨を水夫らごと宙空に引っぱり上げる。錨は円弧を描きながら、ゆっくりと甲板にもどってくる。ラムジは再びオカリナを奏ではじめていた。
「ちくしょうめ。こんなことをして何の意味がある」
「口べらしさ。船長は口べらしが必要なんだ」
「ちげぇねぇ。だいたいあのコックは何だ。自分だけブクブク太りやがって」
「そのくせおれたちにはトビウオのフライしか食わせねぇんだからな」
帰還した水夫らは、ガタガタ震えながら、それぞれの不平を分かちあっている。
ウインドラスを操作していた乗組員が、甲板の濡れていない部位だけを踏みしめながら水夫らに近づいてゆく。
「やつを見た者はおるか」
「いいえ」
「まったく」
「見せてほしいくらいでございます」
「だまれ、船長を侮辱するつもりか」
「しかしながら、裏を返せば、船長しか見てないわけですな?」
「きさま、何がいいたい。おい、新人。おまえもだ。タバコをくゆらすひまがあるなら、さっさと縄索を巻け!」
怒りの矛先が変わったようだ。いかつい顔をした中年男は、甲板をドカドカやると、海鳥の糞で変色しきった厚底ブーツでわたしの尻を蹴り飛ばし、捕鯨索が格納されているトモへと誘導してゆく。
ここへやってきて以来、一度も使われているところを見ていない捕鯨索は、そこかしこにフジツボを繁殖させているものの、間近で見るとようようとしており、だんだんに重ねられたまま老朽化しているさまは、ピラミッドさながらである。おそるおそる手をかけるも、みじんも動く気配がない。そこへラムジがかけ寄ってきて、そっと耳打ちする。
「ふりだけでいい。いっしょうけんめい引っぱってるふりをするんだ」
「すぐにバレてしまうよ」
いかつい表情を顔面にはりつけたまま遠巻きに監視していた乗組員が、再びこちらへ歩みだしはじめた。
「いいからやるんだ」
パイプをつき返し、全体重をかけて縄索を押しだそうとこころみるも、案の定びどうだにしない。
「いいぞ。やればできるじゃあないか」
男は、いかつい顔にまんぞく気な笑みを浮かべ、後ろ手のままクルリときびすを返した。
「あいつはJ・ケリー。三等機関士だが、何もやっちゃいねぇ。コックのプウライポや二等運転士のデメニギーどうよう、船長に取り入ってやがるのさ。陸で会ったら蹴り飛ばしてやるんだがなぁ」
「君にそんなことができるのかい。陸じゃ、名のある演奏家でとおってたそうじゃないか」
「寝ながら覚えたのさ。ガキのじぶん、足が悪くてね。だが結局のところ、売れない音楽家なんぞ、ごろつきと同じさ」
とうとつに、J・ケリーが水夫のひとりを殴った。水夫は尻もちをつき、その場から逃れようとする。J・ケリーは、なおも追いうちをかけようと水夫を追いかける。他の水夫らは、よどんだ表情でそれを見守るのみだ。
「知ってるか? ほんものの演奏家は何がおきても演奏をやめないらしいぜ。目の前で仲間が殴られていても、だ」
いうとラムジは、オカリナをわたしの胸元に押しつけ、J・ケリーと水夫の間に分け入り、仲裁をこころみる。どうやら数枚の紙幣をさしだしたようだ。
「ふん! 今回はこいつに免じて許してやるが、つぎに居眠りしやがったらただじゃおかないぞ。おまえもだ新人。つぎはないからな」
げんなりと肩を落としてもどってきたラムジに、わたしはずっと気になっていたことをきいてみることにした。
「誰もが、トトポス船長はほら吹きというが、君の意見は?」
「いいこと教えてやろうか」
ふいに、船がぐらりとゆれた気がした。
「船長は、かつてこの海域で、海の主を見たといい張っているが、乗組員は誰ひとりそんなこと信じちゃいねぇ。大方アルビノのマッコウクジラか何かを見間違えたんだろうって話だが、進言しようものならサメのエサになっちまうから、誰も何もいわない。それだけのことさ。安全第一。ここでは、何もしないことが正解なのさ。おまえも深入りしないほうが身のためだぞ。ひっきょうトトポス船長にとって“ぬし”は……」
再び船がゆれた。重厚な縄索の山がわずかに傾き、ガリガリと鳴る。
「なぜだ? なぜ船長は“ぬし”に固執する?」
「おまえこそ、どうして船長に固執する?」
ウインドラスや錨が不快な音をうち鳴らしはじめると、今一度デメニギーの号令がかかり、甲板を掃除するふりをしていた水夫らは、それぞれの持ち場へと消えた。
「わたしはノンフィクションライターだ」
「売文屋にしとくにゃもったいねぇきもっ玉だな。いいよ、話してやる。だが、これからおれのいう話は、全部ここにいる誰かからまたぎきした話ということにしといてくれよ」
「約束する」
30数年前、船長はとある豪華客船の一等航海士をしていた。カジノだけが売りの、安っぽい船だよ。古い船を改修したって噂もあってな。喜望峰を抜け、マダガスカル海峡にさしかかるころ、沿岸警備船あがりの水兵が、けったいな悲鳴をあげた。
「船底に、のっぺらぼうがいます」
まったくもって意味不明なんだが、そいつは確かにそういったらしい。
つぎの瞬間、船はつよい衝撃をうけ、45度もかたむいた。船長はとっさにハンドルを回し、前方左によけようとしたが、経費削減のあおりをうけ、メンテナンスもまともにされてない怪しいエンジンだ。最低のすいしん力でね。あっという間に潮にのまれてしまった。
ざしょう事故では、海水が危険なのではなく、海水のあまねく流入によって、扉という扉がふさがり、脱出不能におちいることが怖いんだよ。その点、船長は幸運だったのかもな。なんとなれば、ブリッジから投げだされて、いっとう最初に船外へ脱出できたわけだから。
だが、自分ひとり助かるのが嫌で、結局は海底へ落ちていくことを選んだそうだよ。大小さまざまなあぶくが現れては消えた。やがて、ふしぎな明るさを感じた。むろん、海底に光などあるはずがない。しかし船長は、たしかに見たというんだ。見渡すかぎりのまばゆい光を。
「幻でも見たんじゃないか」
「どうかな。水夫らからききかじった話なんで、おれにも真相はようわからんが……」
いうとラムジは、パイプの先をガリッとかんだ。
捕鯨索は不協和音を奏でながら、目の前のピラミッドの山をつき崩してゆく。霧がこくなり、視界も悪くなってきた。ラムジからわたしへ、あるいはわたしからラムジへ。どちらから伝播したのか定かではないが、たがいに不穏な空気を共有していることだけは確かだった。にも関わらず、いやだからこそ、ラムジはくだんの回想を継続しようとしているように見えた。
さて、いつしか船長は、生きた光の表面に、小さな陥没があるのに気づいた。ビードロのような泡をルーペ代わりにして、ぎっと眼をこらして見定めてみると、穴の奥には、あらゆる光を吸収する、しっこくの球体がちんざしていた。“ぬし”の目玉だった。船長が“ぬし”を見た時、“ぬし”も船長を見ていた。おそらくは同時に見ていた……。
再び船がかしいだ。ラムジとわたしは、入り乱れるようにして甲板を転げまわった。ラインホーラーに頭を打ちつけ、縄索にしがみつきながら空をあおぎ見ると、透明な物体が急速に近づいてくるのがわかる。
「ラムジ、ラムジ。氷山だ!」
「わかってる。氷山だ! わかってるよ」
船腹から、絶叫のような金属音が鳴り響いた。顔の数センチ横を、氷山がいきおいよく疾走してゆく。いてつくような冷気をあびた。氷の表に、自身の顔がくっきりと映りこんでるのが見えた。何人かの水夫が甲板から落ちたようだった。身をかがめながら、わたしは思いだしたようにブリッジの方角をながめる。なぜ? ラムジの回想をきき、トトポス船長の運命をわがことのように感じはじめていたから? 数秒後の未来を過去の事故に重ね合わせて克服したかったから? ちがう。わたしが気になったのは、つぎの一点である。もし、彼の話の中の船長がもどってきてないとしたら、今この船を動かしているのは何者なのか?
のうみつな霧が、航海灯の光をそちこちに反射させた。旋回窓の向こうには、人影が見える。二等運転士デメニギーでも、三等機関士J・ケリーでもない。背が高く、若いようにも年老いてるようにも見える。せまりくる氷山を正面から見すえながら、やみらみっちゃにハンドルを回している白髪の男。彼こそが、トトポス船長だろうか?
より観察しやすい場所へ移ろうと、わたしは一歩前に進んだ。つぎの瞬間、後方で何かが崩れるような音がして、氷山のかけらがダイヤモンドダストとなって視界をおおいつくした。
それから船長は、黒い滝の中へ吸いこまれていった。滝は渦にのまれ、渦はコリオリの力で船長をらんざつにすすいだ。大量の水をのみ、腹の中にも海が浸透した。耳が巻貝であったころを思いだした。いつしか満天の星空へ、トビウオのごとく吹き飛ばされ、海面につきささった。
ひとみに色彩がもどるころには、氷山ははるか彼方にあった。ガラスの城のように、向こうの空を多面的に反映している。目の前にあった時には剣のかたまりのようだったのに、遠くから見るとこんなにも美しいのか。
しばしとほうにくれていると、足裏に何かが当たった。フジツボだった。甲板に視線をうつすと、山づみになっていた捕鯨索が、船ぜんたいを捕獲するかのごとく屈託なく伸びきっている。網の目の間にも、大量のフジツボが転がり、きらきらと星座めいたものをかたどっていた。
「いやぁ、寒中水泳さまさまだねぇ」
「ちげぇねぇ」
さきほど船からふるい落とされた水夫らが、折れ曲がったクレーンをつたって甲板にもどり、遠距離通信アンテナからもれる火花で暖をとっている。遠巻きに眺めていたわたしは、ふいに燃えあがるような痛みを感じた。痛みは、顔や手など外気にさらされていた部分に集中していた。見れば、コートが純白に染めあげられている。それがダイヤモンドダストだとわかるまで、少し時間がかかった。かたわらで横臥していたラムジが、あいまいにひとりごちる。
「ここはまぶしいなぁ。それにあたたかい」
わたしは彼に歩み寄った。
「教えてくれ、ラムジ。その後、船長はどうなった?」
「おれは何だか眠くなってきたよ……」
「しっかりしろ、ラムジ」
「……片足を失い、ひとり海面をたゆたっていたトトポス船長は、深刻な睡魔に襲われていたんだ。眠ってはいけない。何度もそう思うが、そのつど意識がもうろうとして、どうにもあらがえそうにない。いよいよおしまいかと観念しかけた時、うしなった足のあたりにやわらかな力を感じた。何だと思う?」
「絶望のさなかに、なおも自分を押しあげようとする人智をこえた力……。“ぬし”だ。海の主が、最後に船長を助けてくれた」
「ノンフィクションライターのわりにメルフェンチックだねぇ。ジュニア・スイートにしつらえてあった合皮のソファーがプカプカ浮いてきただけだよ。船長は、それを救命ボートがわりにして、7日後に救助されるんだ」
いつしか乗組員らが、わたしたちを取りかこんでいる。コックのプウライポ、二等運転士デメニギーに三等機関士J・ケリー、彼に痛めつけられていた水夫らも肩をならべていた。
「ほらを吹くな。いっとう最初から“ぬし”なんていなかったんだ」
「そうだ、そうだ。 “ぬし”なんていない」
「だいたい、船が半壊しているというのに船長がでてこないとはどういうことだ? やい、この中で、トトポス船長を見たやつはいるか」
わたしは思わずブリッジを見上げた。だが、破損した窓がクモの巣状のひび割れを作り、中のようすをうかがい知ることはできない。
しばしの沈黙の後、プウライポがぼそっとうそぶいた。
「……おれはトビウオを運ぶだけだ」
デメニギーとJ・ケリーもそれぞれの弁明をはじめる。
「われわれは、扉ごしに指示をうけとるだけであるからして……」
「おみあしの不自由な方ゆえ、かじょうな詮索は非礼にあたいするものと判断し……」
明確なこたえもでぬまま、再びラムジの元へ視線が集約される。
「あぁ、何だかほんとうに眠くなってきた……。よかったな、みんな。やっとこさ静かになるぜ。船上の演奏会は、これにて、おし……まい……」
言葉はそこで途切れた。誰もが口をつぐむ中、波の音だけがいつまでもじょうぜつに語りかけてくるようにきこえた。
ラムジのオカリナは、今わたしが持っている。とうめんは、二等運転士デメニギーが代理船長をつとめるこの船のヘサキに立って、朝夕かかさず即興演奏にいそしむつもりだ。
船は、あと数日で南極大陸に到着する。