「ソウル動物映画祭」(SAFF)でプレゼンターを務めた話③
韓国で開催されていた「ソウル動物映画祭」(SAFF)にてプレゼンターを務めさせていただいたので、その際のレポートを書きました。
上映へ至る過程は、こちらからお読みいただけます。
メガボックス弘大2に到着した際の話。
『ねこさがし』の構造と当日のプレゼン内容。
前回は、『ねこさがし』の自作解説とスピーチで締めくくったので、へたくそなセルフ・プロモーションみたいになってしまいました。
誰から求められるでもなく、勝手に自作解説をするというのは、かなり恥ずかしい行為だと思うのですが、では何でこんな恥ずかしいことをやってるのかというと、「映画の細胞」のポテンシャルを訴えたかったからです。
映画というのは、必ずしもお金をかければいいというものではないし、絶対に人間が出なければならないものでもありません。2時間を超える必要もなければ、逆に10時間を超えていってもいい。今主流の映画のルックを追いかけなくても、国際的な評価や共感が得られる可能性があるというのを知っていただきたかったのです。もちろん、そんなことはとっくに知ってるという方もたくさんいらっしゃるとは思いますが。
『ねこさがし』は、「探す」或いは「気づく」ことを軸として、完成度を一般的な映画のクオリティからスライドさせていきました。完成度をスライドさせるというのは、既存の映像と、今ここにある映像を頭の中で衝突させるということです。
過去の映画に現在の映画を擬えるのではなく、現在の状況に過去の状況を無理やり当て嵌めようとするのでもなく、ごく自然に、今いる場所から生まれる映画の可能性に賭けてみることです。
しかし『ねこさがし』を作っている途上、すべてが適当な私ですらも、子役の方を起用してカッチリ撮りなおしたらメジャーな作品に化けるのではないかという欲にかられました。
過去の映像に擬えようとしたわけです。
映画の「核(コア)」を問い直す中で、そういった完成度が適切ではないと気づくことができ、チープで脆いとされる映像を主体的に選択することで難を逃れましたが、それだけ過去の映画というのは吸引力があり、また拘束力があるということなのだと思います。
もし私が子役の方を起用してカッチリ撮りなおしていたら、この映画はどうなっていたでしょうか。
子どもと動物は相性がいいので、一般層から歓迎されたかも?!
ひょっとすると、4年も放置されずに大勢の人に観てもらえたのでは!?
しかし、考えれば考えるほど、その可能性は低いと思えてきます。なぜかなら、私より技術のある監督や恵まれた制作環境にいる人物など掃いて捨てるほどいるでしょうし(事実『ねこさがし』と同時上映だったTodd Bieber監督は、高度な映像技術を持つニューヨーク・タイムズ紙のドキュメンタリー映画製作者でした)、既存の映像に擬えることで平均化し、TV番組で不定期にやってる「かわいい生きもの特集」みたいな映像へ埋没していた可能性が高いからです。(あれはあれで、プロフェッショナルの仕事ではありますが)
豊饒な映像表現が横溢する中、ひときわ素朴で、取るに足らないクオリティで、そんなに時間もかけずに作ったからこそ、もっとも環境負荷のない映画という、他の映像作品にはない個性及び強さが生まれたのだと私は勝手に納得しています。
金の斧でも銀の斧でもなく、自分の斧を持つこと。
それが、所謂自由に作るということなのではないでしょうか。
もちろん、そんなことはとうに知ってるという方も大勢いらっしゃるでしょう。しかし、どんなに自分がいいと思っても、他人がそう思わない限り、誇大妄想か独り相撲のように映りかねません。(映っても平気という人はいいのですが)故に「監督」には最低でも一人「観客」が必要なのです。その逆も然り。
『ねこさがし』という素朴かつ造作のない作品が、「ソウル動物映画祭」というまったくコネクションのない場で、ささやかな評価を得ることができたという事実は、個人的な僥倖である以上に重要なことだったのではないかと今では思っています。それはとりもなおさず、「映画の細胞」という映像様式にも、エコロジー的な側面があることを示唆しているからです。
「映画の細胞」のコンセプトは、「東京フェイクドキュメンタリー映画祭」を主催する木澤航樹さんと4年ほど前から考え続けてきたのですが、「細胞」という最小単位が象徴するように、ミニマルであることにはかなり自覚的だったものの、エコロジーの観点から考えてみたことは一度もありませんでした。
その意味では、『ねこさがし』という映画は、私たちを物理的に韓国へ連れて行ってくれただけでなく、内面にもある種の拡張性を付与してくれたように思っています。(今後はもっともエコな映像様式と言い張っていこうかしらん)
「ソウル動物映画祭」のプログラマー兼映画研究者でもある황미요조(ミヨジョ・ファン)さんは、既に「映画の細胞」の件をご存じ(!)で、同じく「細胞」を冠した「space_cell_film」という企画をご紹介くださりました。私の考えていたことは、韓国の映像作家の間でも考えられていたのかもしれないと思うと、ちょっと嬉しくなりました。
また、リサイクルを語る映画はたくさんあるけど、映画自体がリサイクルでできてるものはないのか?という、ちゃぶ台返しのような主張にも強く共感いただいたのを覚えています。そのような創意で生まれた映画は、当然商業ベースの映画とは完成度が違ってきますが、我々はその映画を評価する眼を持っているのか?等々、終電の時刻が迫っていなければ議論は延々と続きそうでした。
こういった濃密な交流は国内でも滅多に為されないだけに(むしろ忌避されている?)、名残惜しかったのを覚えています。
ぱくぽ☆いしなかこと岡本和樹監督が、「たぴにつき」というシリーズで私やその周縁のことをつらつらと書いてくれてるようなので、そちらをお読みいただくと、より多角的に楽しめるかもしれません。(岡本さんのほうが文才あるしね)
(続く)