『Nさんのこと』
おれは怪奇現象とかいっさい信じないタイプなんだけど、一度だけ、それに近い世界に接近したことがある。
今までこういった話をしようとしなかったのは、どんなに真剣に話したところで、頭がおかしいと思われるだけだし、この世にオカルトというジャンルがある以上、ひとつのファンタジーとして消費されておしまいになると思っていたからだ。
それに、具体的に何があったかを書こうとすると、それが本当に起きたことなのか、自分でそう感じてるだけで実際には何も起きてなかったのか、よくわからなくなってしまう。
でも、あれから10年以上たって、それなりに社会人経験を積んでくると、世の中にはよくわからないことが結構あるってことがわかってきたんだ。
たとえば、ルッキズムを扱ったニュースの直後に、半裸の女性が笑顔で清涼飲料水を宣伝したりするのはOKなんだろうかとか。
高齢者が多いとはいえ、おじいちゃんおばあちゃんは孫のことが大好きだから、選挙では子供たちが暮らしやすい社会の実現を目指す政治家や政党を選んでくれるに違いないと思っていたら、なぜか高齢者優遇の政党ばかりが選ばれてるとか。
それで、おれにとって一番よくわからないこと、つまりNさんのことを書いてみようと思ったってわけ。
でも、おれと彼女の接点は短期間のものだったし、起きたことをありのままに書くだけなので、読んでもあまり面白いものにはならないかもしれない。また、10年以上前のことなので、細部にやや誇張が入るかもしれないけど、そこは大目に見てほしい。
※
Nさんは、おれが最初に入った映像制作系の会社が運営するインターネットTV(その頃はまだ、ネット配信という言葉すらなかった)のオカルト系チャンネルに出演してもらった霊媒師の一人だった。
霊媒師といっても、ちゃんとした背景のある人じゃなくて、「なんちゃって」に近かったと思う。何しろ、会社が支払っていたギャラはかなり安かったし、視聴者も1000人とか2000人とか、その程度だったからね。
番組でNさんは、売れない芸人や地下アイドルの人達と一緒に曰く付き物件に行って霊視をやったりしてたんだけど、予想通り何も起きなくて、その分編集が大変だったのを覚えている。
当時ADだったおれの仕事は、編集以外だと演者へのメールや送り迎えとかが基本なんだけど、心霊番組なんて深夜までやるので、帰宅は午前1時とか2時になるわけ。
芸人さんと地下アイドルにはマネージャーがついていたので、それぞれの車で帰ったんだけど、Nさんは事務所に所属してるわけではないので、誰かが車で送っていく必要があった。
Nさんは、「近いので一人で帰れますよ」って言ってたけど、深夜だったし、おれはおれで、朝方までかかりそうな編集作業からいったん逃避したかったというのもあって、二人で歩いて行くことになった。
ちなみに会社は新宿にあって、Nさんの住まいは新宿御苑だった。
おれは普段そんなに喋るほうではないけれど、出演してもらった手前、さすがに無言でいるのも失礼なので、場つなぎみたいな会話をすることにした。
おれ「どうでしたか? 今日の撮影?」
Nさん「結構楽しかったですよ」
おれ「でも、なんも起きなかったですけどねぇ」
Nさん「あはは。でも、そのほうがいいと思いますよ」
自称霊能力者って、ど派手なスーツかコスプレみたいな和服を着た妙齢の女性が多いんだけど、Nさんはそのどちらでもなくて、ごく普通の黒いコート・ジャケットにチェックのスカートを合わせていたような気がする。
でも、よく見ると、手首に数珠みたいなのが何種類かあったり、目つきにも少し特徴があった。特徴ってのは、極端に瞬きが少ないとか、そういうことだけど。
おれ「そのほうがいいというのは?」
Nさん「○○さん(おれのこと)は、明日地球が滅びると分かったら、どうします?」
おれ「え? いや、めっちゃ嫌っすけど」
Nさん「ですよね。分かってても、対処のしようがないことってあると思うんです。人間ってたぶん、そういうのは知らないほうがいいんじゃないかって」
おれ「え? どういうことっすか?」
Nさん「わたし、嘘をついたんです。本当は、そこら中にいるので」
おれは急に背筋が冷えてくるような感じがして、まじまじとNさんの顔を見つめた。Nさんは瞬き一つせず、何処か遠くを見ている。
おれ「何がいるんです? 嘘って何のことです?」
Nさん「〝見えない〟ことにしたほうが、みんな幸せになるから」
おれ「何の話をしてるんですか?」
Nさん「ほら、向こうにも〝彼ら〟が……」
おれ「〝彼ら〟?」
Nさんの視線を追うと、古い雑居ビルの隙間に赤く発光してる人間がいた。
サイネージとかネオンの看板があるわけでもないのに、人の身体全体が、赤信号のランプみたいに赤く光っているんだ。
誰だって、赤く発光してる人間なんか見たことないだろ?
もちろんおれも、それまで見たことがなかった。
でも、そいつはマジで赤く光っていた。正確には、そいつの周りだけ赤い膜みたいなものに覆われてて、その光が燃えるように動いているみたいだった。
ハロウィンのコスプレとかで、そういう奇抜な衣装を身にまとう人もいるとは思うんだけど、なんていうか、一目見ただけでこいつは人間じゃないってわかる感じなんだよ。ちょっと空間が歪んでるっていうか。
でも、その直後にもっとヤバイことが起きた。
おれがそいつに気付いた瞬間、そいつもおれに気づいて、猛スピードでこっちに走ってきたんだ。
それがまた、人間の速度じゃなくてバイク並なんだよ。
いつの間にか、Nさんがおれの手を握って走り出していた。小柄なNさんからは想像できないくらい速くて驚いたのを今でも憶えている。しかもなんていうか、走ってるっていうより、地面の少し上を滑ってる感じなんだ。
赤いやつは、最短で7メートル先くらいにまでは接近してたと思うけど、Nさんの俊足が勝って、引き離されていった。
ふと気が付くと、どこかのコンビニの傍にいた。
コンビニには、買い物客が何食わぬ顔で出入りしている。日常の景色が、おれの恐怖心を少しだけ和らげてくれた。
赤いやつはもういなかった。
Nさん「○○さん、大丈夫ですか?」
Nさんは、あれだけ走ったのに呼吸が乱れてなかった。それは、おれも同じだった。でも、いろんなことが起こりすぎて、おれはすぐには返答できずにいたように思う。
Nさん「すみません。私の影響で、〇〇さんにも怖いものを見せてしまったようで……」
おれ「……何なんです、あれは?」
Nさん「私達のようには、生きていない者です」
おれ「じゃあ、死んでるんですか?」
Nさん「わかりません。存在はしてるみたいです」
おれ「はぁ? ちょっと、いい加減にしてくださいよ。こっちはまだ仕事が……」
Nさん「マズイです」
Nさんが、また何かに気づいた。
おれは、さっきの赤いやつを思い出してしまい、また心臓がバクバクしてくるのを感じた。
Nさん「見ないでください」
そんなこと言われても、おれはさっきのやつが何なのかマジで知りたかったし、Nさんは瞬き一つぜずに見てるくせに、何でおれだけ見ちゃいけないのかわからなくて、またしても目線の先を追ってしまったんだよね。
案の定、赤い人間がいた。
今度は、ビルの工事現場の前に光っていた。前回よりはっきり顔が見える。長髪なので、女だ。
恐ろしいことに、遠く離れていても目が合ったのがわかった。なぜわかるのかわからないんだけど、神経がそう告げ知らせるんだ。
で、次の瞬間、やつらはもう走っている。おれたちが〝見える〟人間だとわかると、俄然本気を出してくる感じなんだ。
Nさんは、またおれの袖をひっつかんで逃げた。
数メートル走っただけのようにも思えるし、数キロ走っているような気もする。どちらにせよ、中年女性の体力ではなかった。だけど、おれたちが足を使わず、地面の少し上を滑っていたのなら、そんなに疲れはしないような気もする。つまり、路面スレスレを浮遊しながら移動していたならば。
でも、そんなことってあるか?
すべてが異常なのに、異常な状況の中にも、ちゃんと法則みたいなものがある。おれの理性は完全に根を上げてしまい、あとはもう、この分野の専門家であるNさんに身を預けるしかないと諦めていた。
暫くすると、おれたちは、Nさんの家の前にいた。
アパートやマンションではなく、40坪くらいはある大きな平屋だった。
Nさん「〇〇さん、入ってください。ここなら安全です」
なぜそこが安全なのか、全然わからなかったけれど、おれは言われるままにNさんの家に上がり込んだ。そして、ここでもおれは戦慄することになっる。
何もないんだ。
広い部屋には小さな娘さんが一人いて、「おかえり」と言って近づいてきたけど、家の中には家具や生活用品が何も置いてない。ミニマリストとかのレベルじゃなくて、冷蔵庫やコンロ、洗濯機にテレビ、カーテンとかソファーすらないんだ。本当に何も。
でもおれは、そのことをNさんに問いただそうとは思わなかった。
だって、あんな奴らが日常的に見える人生って、かなり難易度が高いと思うし、あいつらから身を守るには、常識的なやり方では通用しないってくらいは理解してしはじめていたからね。
おれ「Nさん。あの、おれ、少しここにいてもいいですか?」
Nさん「もちろんです。何なら泊まっていってもいいですよ」
おれ「いえ、さすがにそこまでは……」
生活感0のだだっ広い空間に、おれとNさんと娘さんがいるだけなので、正直かなり気まずかった。またNさんは、帰宅後すぐに窓際に正座して、あの瞬きのない目でジーッと窓の外を見ているものだから、内心怖くて堪らなかったな。
お子さんが部屋の隅で眠たようなので、おれはおそるおそるNさんの背中に語りかけてみた。
おれ「あの、Nさん。ちょっと失礼な質問してもいいですか?」
Nさん「はい?」
おれ「旦那さんは?」
Nさん「あぁ、離婚しました。3年前に。薄気味悪いって……」
おれ「ですよね……。あ、いや、すみません」
Nさん「いいんです。その通りですから」
おれ「すみません」
Nさん「後悔してるんです。私がちゃんと〝見えない〟ことにしておけば、この子にも迷惑はかからなかったんじゃないかと」
おれ「でも、さっきは私にも見えましたし」
Nさん「それは、よくない傾向です」
おれ「でも……」
Nさん「忘れてください。○○さんは、私から離れれば元の普通の生活に戻れると思います」
おれ「だけど、さっき絶対いましたよね? あの、赤いやつ……」
いつしか、おれの語気は荒くなっていたのかもしれない。ずっと窓の外を見ていたNさんが、振り返っておれの方を見る。やはり、その目に瞬きはない。
Nさん「○○さん、この世に絶対なんてないですよ。違いますか?」
おれ「そりゃまぁ、そうですけど……」
Nさん「例えば、もし私の頭が狂っていたら? 頭のおかしい私と過ごしているうちに、〇〇さんの頭もおかしくなったとしたら?」
おれ「え……?」
急にフローリング全体が冷えて、足元が凍てつくように感じられた。
冷静に考えると、こんな何もない部屋で過ごす人間は正常なのだろうか。電気・水道・ガスくらいは通ってるぽいが、テーブルや椅子はない。ゴミ箱すらない。二人は一体どうやって過ごしているのだろう。
ひょっとすると、Nさんこそ幽霊なんじゃないか?
一旦そう思うと、もうそうとしか思えなくて、おれはすぐにでもこの家を出たいと感じた。でも、仮にNさんが幽霊だったとして、外にいたあの赤いやつと比べれば、まだ大分マシなんじゃないかと考えなおして、結局朝までいることになるんだけど。
Nさん「夫と出会ってから、私はずっと〝見えない〟けど、あると信じていました。でも、夫にとって、それはなかったんです。逆を言うと、私の中にしかなかったんだと思います」
おれ「それってつまり……」
Nさん「幽霊、といいたいところですが、違います。もっと不思議で怪奇な現象ですよ」
おれ「心、ですか?」
Nさん「愛情です」
※
これが、おれが知ってるNさんのすべてだ。
その後、心霊番組は何の怪奇現象も映さぬままひっそりと終わり、おれは仕事を変えた。