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「ソウル動物映画祭」(SAFF)でプレゼンターを務めた話②

韓国で開催されていた「ソウル動物映画祭」(SAFF)にてプレゼンターを務めさせていただいたので、その際のレポートを書きました。

上映へ至る過程は、こちらからお読みいただけます。

前半パートはこちら。

前半では、『ねこさがし』と同時上映だったTodd Bieber監督の『American Cats: The Good, the Bad, and the Cuddlyを観た時、それが破綻のないプロフェッショナルの映画だと感じたことで、自分の立ち位置が鮮明になり、逆に安堵したというような告白で終わったかと思います。

この心情は、私が主催する「映画の細胞」という企画と絡めて説明したほうが分かり易いかもしれません。

「映画の細胞」は、一人の監督が一人の観客へ贈る新しい映像様式を模索すべく、2023年から私が開催している小さな実験映画祭です。

参加される「監督」には、製作費1万円が支給されますが、別に使い切る必要はなく、想定される「観客」をマスから一人へフォーカスすることで映画の完成度を自由にスライドさせ、参加者全員で映画の前提条件を問い直すというのが主眼でした。

しかし、いざ開催してみると、映画の完成度を崩すというのは存外難しいということが分かってきました。

理由はいくつかあると思うのですが、ひとつには、映画は私たちが生まれる前からあり、現在、私たちの生活空間へ届くタイプの映画は、その殆どがマスを対象とした商業映画であるということ。また、そのバイアス抜きには、映画として認識すらされないのではないかという恐れ、もっといえばコモンセンスみたいなものがあるのではないかということです。

美容院や歯科クリニックでは、全員を同じ髪型にしたり、全員を同じ歯することはありません。個々の頭の形や歯形に合わせて技術を提供し、ちゃんと経済が回っています。
安価になった機材やテクノロジーを駆使すれば、そろそろ映画でも同様の個別対応みたいなものができるのではないかと考え「細胞」を始めたわけですが、やはり前例がなさすぎたのかもしれません。

自分の宣伝みたいになるのが嫌で、ずっと避けてきたのですが、よい機会なので『ねこさがし』を「映画の細胞」のサンプルとして腑分けしてみようと思います。

この映画の製作費は、ぶっちゃけ0円です。
何故なら、近所をokuさんと散策して、一日で撮ってしまったからです。
カメラは、2014年に友人からもらった中古のカメラを使用しています。
照明もマイクも使わず、一眼レフカメラのベーシックな機能のみに依存しています。
登場人物は、私とokuさん、近所の犬や壁の落書きなどで、役者さんはいません。
劇伴は、パブリックドメインを使用しました。
脚本もなく、編集の段階で気づいたことを足したり引いたりしました。
編集ソフトは使いましたが、サブスクではなので、こちらも費用は0円になります。
撮影・編集に監督である私の人件費がかかるとしても、半ば気晴らしでやってるだけなので、ストレスは0です。
「観客」は特に想定しませんでしたが、4年間何処でも上映されてないので、その間はokuさんだけが「観客」でした。

このように、すべてが適当かつエコロジーなわけですが、ひとつだけ大事にしていたことがあります。

それは、『ねこさがし』という作品の「核(コア)」は何かということです。

この映画では、人が街で猫を探しながら、いろいろなことに気づいていくという物語構成をとっています。いい換えると、「探す」或いは「気づく」ことがキーになっているともいえます。

人間と動物。都市と自然。私とあなた。映画と映画ではないもの――。

それらを表現するために、どのような手法が有効で、またどのような技術が不要なのか。この見極めは、結構難しい作業なのではないかと思っています。

何しろ、普通に鑑賞すれば『ねこさがし』はチープな映画です。世の商業映画と比較してみると、殆どアマチュアといってよい出来にも見えます。本当にこのままでいいのかという葛藤が常にあったわけです。

一度、この映画をセルフリメイクしようと考えたことがありました。

プロットはそのままに、登場人物を私とokuさんではなく子役の方に変更し、もう少し高価なカメラで丁寧に撮りなおしたら、映画としてのクオリティが上がり、存外メジャーな作品に化けるのではないかと期待したのです。

しかし、そのような作りこみは、映画が観やすくなるのと引き換えに、観客の能動的な参与の機会を奪ってしまいかねません。「気づく」ことから遠のいてしまう演出なのです。

また、『ねこさがし』は近所の野良猫を探す内容でしたから、映画が血統書付きの猫のようなルックになってしまってよいのかという疑念もありました。いい換えれば、そういう表面上の好みで、この映画を評価されたくないと私は思っていました。

逆説的ですが、「探す」ためには「探しにくい」スタイルが必要で、「気づく」ためには「気づかれにくい」作風が要ります。その意味では、現行の映画においてもっとも軽んじられているスタイルこそが、この映画に相応しいルックといえます。

最終的に、私は完成度を一般的な映画のクオリティから、ブリコラージュを基調とした素朴なものへスライドさせ、その範疇での最善を目指して頑張りました。ある種の誇りと確信をもって。

傲慢に聞こえるかもしれませんが、150年前にリュミエール兄弟が撮った『工場の出口』や『ラ・シオタ駅への列車の到着』よりは幾分凝った作りになっているはずなので、あとは「気付かれにくい」作風に「気づく」人さえいれば、内容と形式が一致したコンセプチャルな映画として、ある程度の評価を受けるのではないかと期待していたところもありました。
(もちろんそれは、甘い目論見でした。まさか4年も放置されることになるとは)

以下は、「ソウル動物映画祭」でのスピーチ内容です。――――――――――――――――――――――――――――――――――
皆さん、こんにちわ。
『ねこさがし』を監督をした相馬あかりです。

『ねこさがし』は、2021年頃に制作されましたが、長く上映の機会に恵まれず、捨て猫のような状態でした。その意味では、韓国での上映は「ANIMAL PROTECTION(動物保護)」だと思います。上映の機会をくださった「ソウル動物映画祭」の皆様、どうもありがとうございます。

本日上映された作品の中では、私の映画がもっとも素人っぽいものだと思っていたので、舞台挨拶をするのも恥ずかしかったのですが、反面『ねこさがし』ほど環境負荷の少ない映画もなかったのではないかと自負しています。

パンデミック以降、私は映画を作り続けるために極力お金をかけない映画作りを模索してきました。即興性を肯定し、身の回りのもので間に合わせることでは、私はある種のプロフェッショナルかもしれません。まぁ、実際は、ただお金がないだけなんですが。

アマチュア映画コンテストに参加された皆様にお伝えたいのは、貧しさを価値に転換してほしいということです。

大切なものはいつの時代も忘れ去られています。そしてそれは大抵、小さくか弱いものです。

そういった問題にフォーカスできるのは、巨額な資本を投じたプロフェッショナルの映画ではなく、環境負荷の少ないアマチュア映画なんじゃないかと私は思っています。そしてそれを受け入れる土壌が、ここ「ソウル動物映画祭」にはあると思います。

閉会式に参加させていただき、ありがとうございます。明日はソウルで「猫探し」をしたいと思います。
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© The 7th Seoul Animal Film Festival

ぱくぽ☆いしなかこと岡本和樹監督が、「たぴにつき」というシリーズで私のことを書いてくれてるようなので、そちらをお読みいただくと、より多角的に楽しめるかもしれません。

(続く)

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