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「映画の細胞」における非宣伝戦略

第二回「映画の細胞」では、完成作品毎に個別上映を行っています。これは、監督と観客を完全に1対1の状態にするためです。

昨年の11月には、井上国太郎さんと中村雅人さんの『寝床タイムカプセル』が東京大学制作展"iii Exhibition"にて先行上映されました。
布団をスクリーンにして、寝ながら鑑賞する上映形式の提示はとても新鮮で、作品を目撃することができるのは、横臥する一名のみという在り方にも、『映画の細胞』の変奏を見る思いがしました。

今回上映するのは、古谷実愛さん(監督)とASHIOさん(観客)による『飴細工』です。

映画『飴細工』より

この作品は、女性同士の関係性をテーマに制作されており、作品内にも女性しか登場しません。”BL”などの作品は邦画においても定期的に制作されていますが、所謂”百合”系の実写作品は殆ど見当たらないため、そういった作品を観てみたいというのが、ASHIOさんの参加理由でした。

ASHIOさんのような少数の声は、製作費回収までを逆算し、慎重に企画を推し進める商業主義的な現場では、会議の段階で排除されてしまうことが多いため、「細胞」の仕組みによって掬い上げることができるなら、ある意義があるのではないかと思えました。

上映場所なども、毎回変えて行こうと思っているのですが、今回はプロジェクターを完備したレンタルスペースを借りることにしました。これは、観客が一人だからこそ効く小回りだと思います。

また、通常映画が完成すると、関係者はSNSなどを通じてこぞって宣伝をしますが、「映画の細胞」は、一人の観客に向けて制作される映画の祭典なので、宣伝の必要はなく事実の報告だけをすればいいという清々しさがありました。

宣伝がよくないというわけではなく、監督や映画祭運営たるもの、作品のためにやれることはやるべきだと思うのですが、宣伝のために多大な広告費を出し、影響力のある人物や媒体を求め流離い、関係性をキープするために接待などをしたりと、そういった方向へ努力が向かうと、結局はギョーカイの悪しき習慣に染まって諸々の不祥事を再生産することになるのじゃないかと、それが不安なのです。(個人的には、今日拡散されない情報は、発信者がクリーンな場所にいる査証なのではないかとすら思えるくらいで)

もし、映画の完成後には宣伝するしか行動パターンがないのだとしたら、それはやはりかなり画一的で息苦しいことですし、本当にそれ以外に道はないのか?というのは、現在の作家たちが真剣に考えていかなければならないことのようにも思っています。(その意味では、「細胞」に参加いただいてる監督・観客の皆様は本当に希少な存在だと思っています)

映画『飴細工』より

将棋でいえば、「歩」や「香車」は前にしか進ませんが、「桂馬」は斜めに跳ねることができます。
映画の上映システムにも、「桂馬」的な跳躍が可能となればよいのですが。


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