”原始洗浄生活”
引っ越しが、今ここから何処か別な場所への移行であるならば、そのmoveは、ともすれば映画的であるといえるのだろうか。
移行に伴う諸々の準備は、クランクイン前後に生じる煩雑な手続きを彷彿とさせるし、段ボールに詰め込んだ私物の運搬は、撮影現場における諸々の肉体労働と通底するものがある。
そして、古い住居から新しい住居への移行が完了した時、それが、どんなにかけ離れた場所であったとしても、なかなかどうして、元居た部屋との同一性を脱却できていない点等を鑑みても、引っ越しは映画と似ている。
相米慎二監督の『お引越し』は面白い映画だが、もっと直截的に、「引っ越し=映画」として提示することはできないかと妄想したりすることもあるのだが、それには幾つかの仕掛けが必要になってくるのだろう。
さて、新居に越してすぐ、風呂場の電球がつかなくなった。
ぼくは、割と朝方まで起きているタイプなので、しばらくは自然光を電球代わりに、夜のみを真っ暗な浴室で過ごすという”原始洗浄生活”を送り続けていた。
だが、二月十四日、東京23区に大雪注意報が発表され、大雪になり損ねはしたものの、幾許かの積雪があり、長靴を履く必要も出てくる段になって、突如自分に腹が立ってきた。
”原始洗浄生活”といえば聞こえはいいが、要は、電球ひとつ変える手間すら怠っている自分への言い訳ではないか。
ぼくは、形状の確認もそこそこに、夜分、近所のスーパーで買い出しをするついでに一本買い付けて、久方ぶりに活躍している長靴で白く煙る道をザッザッと踏みしめながら、新居に向かっていた。
道中、教会があるのだが、その日初めて、ドアから光が漏れているのを見た。
中を覗くと、簡易椅子には、まだ誰も座っていないようだった。
ぼくは、説法の中身は上の空にせよ、エコバックさえなければ、ちょっと座ってみてもいいな、と何故だか思っていた。
帰宅後、エコバックを台所に置いたぼくは、間髪入れず浴室へ向かった。
浴槽は、昔でいう風呂桶タイプだったが、ぼくは構わずその上に立ち、天井の光源の死骸に手を伸ばす。
豆電球の形状は寸分違わなかった。
うまいぞ。
ぼくは、浴槽が妙に揺れるようなのを訝しみながら、もう光を灯さなくなった電球を取り外すべく、反時計回りにスライドさせる。
と、突如浴槽が傾きかけ、ぼくはバランスを失い、浴室の硝子戸に激突していた。
幸い転倒はしなかったものの、浴槽は無様に横臥していた。さらには硝子戸の一部が外れて、蝶番のところで揺蕩っていた。
長引くコロナ禍において、自身の認知以上に増量している肉体の潜在的暴力性を、物理的に納得させられたかたちであった。
脚立を使って、今度は確実に電球を嵌める。
点灯スイッチを切り替えると、銀色の雌蕊と雄蕊に似たアンカーとフィラメントが白熱して、勢いよく浴室を照らした。
―――――――――――――
浴槽は、配置がずれただけだったが、ドアは毀損したため、交換工事が必要となった。
業者によると、古いパーツは替えがきかないらしく、見積金額は、ぼくの一か月分の給与よりやや高かった。
この一件で、ぼくが実感したのは、光を求めて手を伸ばした結果、引き起こしたのが、ただの破壊だったという驚愕の事実だ。
しかし考えてみると、ぼくはもう何度も同様の失態を繰り広げてきたように思う。
崇高なテーマだと思って臨んでいたら、いつしか下劣な表現に逢着していたり、明るい未来を描こうと躍起になっていたら、デストピアをサバイブする物語に熱中していたり……。
だが恐ろしいことに、同様の力学は外部にも散見される。
正義の名のもとに、血みどろの戦争を始める独裁者たち。
平和のために、我先にと戦地へ向かう若い兵士たち。
何事につけても厳しく非難するだけの「保身の帝国」の中で、ぼくはそれを踏襲するかたちで厳しく非難したいわけではないのだが……。
ふと、豆電球を買った夜の景色が脳裏に明滅する。
あの日、教会のドアから漏れていた光に導かれて、中に入り、簡易椅子に座っていたならば、ぼくは、浴室のドアを壊さずに済んだのだろうか?
椅子に座った直後から、様々な教条を与えられ、一層盲目になって出てきたぼくは、浴室で転んで天に召されていたのだろうか?
あれは、ひょっとすると、ぼくだけのために用意された椅子だったのかもしれない。
いずれにせよ、ぼくの”原始洗浄生活”は終わった。
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