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「どんくさい子」「よく転ぶ子」だった私に、網膜色素変性症の診断が降りるまで
初めまして、ブラインドライターズのJNと申します。これからこの場で、私と視覚障害の体験を書いていこうと思います。
網膜色素変性症とは
私の視力は、網膜色素変性症により、現在光が感じられる程度です。
網膜は目の側面を覆っているカメラのフィルムに当たる組織で、表面に視覚細胞が並んでおり、そこで受けた視覚情報が脳に伝達されます。難病情報センターによると、網膜色素変性症は、この網膜に異常をきたす遺伝性、進行性の病気で、通常4000人から8000人に一人、発症すると言われています。
最も一般的な始発症状は、暗いところでの見え方が悪くなる“夜盲”ですが、生活の環境によっては気がつきにくいことも多いようです。最初に視野狭窄に気がつくこともあります。この病気は原則として進行性ですが、症状の進行のはやさには個人差が見られます。現在のところ、網膜の状態をもとの状態に戻したり、確実に進行を止める確立された治療法はありません。将来、期待される治療法として、遺伝子治療、網膜移植、人工網膜などの研究が行われています。
「どんくさい」ことがたくさんあった子ども時代
私は、小学校に入学した頃から「ほかの子どもと少し見え方が違うのではないか」と感じることがありました。落とした消しゴムを見つけるのに時間がかかる、バドミントンのシャトルがラケットに当たらない、暗いところでよくつまずくといったときです。しかし親も私も、重大なことだとは思っていませんでした。ただ、ことあるごとに「ぼうっとしてるからよ」と母に叱られていたのを記憶しています。
ところが小学4年生のとき、野外活動の肝試しで、私は何かにつまずいて転び、額から頬にかけてひどい傷を負いました。それまでにも転んで肘や膝をすりむくことは珍しくありませんでしたが、赤チンを塗っておけば、数日でかさぶたがとれる程度のけがばかりでした。ところが、大きなガーゼを顔に貼り付けて帰宅した私を見た母は「これは鳥目で片づけるわけにはいかない、どこかおかしい」と感じたようでした。近くの眼科医院で診察してもらうと、大きな病院での検査を勧められ、後日、神戸大学病院を受診することになりました。
痛くて怖くて、泣き叫んだ検査
大学病院で受けた検査は、忘れられません。目の中に器具を入れるのです。10歳の子どもには過酷な検査でした。真っ暗な部屋のベッドに、あおむけに寝かされると、冷たい鋭利なものが目の中に入れられました。目がしらの涙が出る部分をピンセットではさまれたような感覚です。痛いのと怖いのとで、無意識に上半身を動かすと、体を押さえつけられます。ぼろぼろと涙が出て、入れた器具がはずれると、また入れなおし、入れなおしたと思ったら、もう片方がはずれるといった具合です。終了までにかなり時間がかかり、私も検査室を出る頃にはへとへとになっていました。
検査後、医者の話を聞いた母の様子から、結果がよくなかったことは子どもにも分かりました。しかしその日、私は何も知らされませんでした。遺伝性、進行性であることを母は医者から説明されたはずです。おそらくショックが大きくて、娘に知らせる前に、自分の気持ちを整える時間が必要だったのではないかと思います。
病名を知らされたあと、不安と戦っていた中学時代
病名を知らされたのは、しばらく経ってからでした。夜盲は以前から自覚がありましたが、視野が狭いと言われてもピンときません。注射を続けていれば悪くならないからと母に強く言われて、毎週、近所の眼科で静脈注射を受けていました。
それなのに中学校に入学した頃から、つまずいたりぶつかったりする回数は、明らかに増えていきました。そのたびに「注射は気休めなんじゃないか、どこまでも悪くなっていくんじゃないか」と不安になったものです。そんな悲観的な気分に陥りそうになると、「いや、気のせいだ、だってあれも、これも、ちゃんと見えている」と、周囲にあるものの形を一つ一つ目に焼きつけることで心を落ち着かせていたように思います。
それから20年をかけて、視力はだんだん衰えていきました。今後、その辺りのことを書いていこうと思います。