「銀河鉄道のなかで」観劇感想文
前書き
書く必要がないと思ったのだけど、どこか言葉にしておこうと思ったし、こうしていれば誰かに届くと思ったので少しだけ言葉にしておこうと思う。むしろ書かなくても良いと思ったことこそ言葉に残すことをすることで少しだけでも整理できるんじゃないかと思って。
最近は作品に関することをつぶやくことも少なくなってしまったから、謝罪の意味も込めています。
彼の思想と切り離して純粋に作品の話をしようと思う。舞台において俳優の演技を含めずに評価をすることが難しいのだけど、今回は純粋に、作品としての話をしよう。
【私の推し】
「銀河鉄道のなかで」、お疲れ様でした。
死にたい時に楽観的な物語ではなく、死にたい時だからこそ、その悲しみに寄り添ってくれる物語だからこんなにも好きなんだろうと思った。桐山瑛裕だから好きなのか、それともそんな物語だから好きなのか、そんな問題は些細なことで、桐山瑛裕の脚本は「そういうもの」なのだなぁと最近思います。
明るさを孕みながら絶望を生きて、絶望の中に希望を見出す。まさしくこれぞと思うほどの桐山節の数々。これを史実の人間を限りなくモチーフにしたフィクションでやってしまうのが素晴らしい。作品自体は映像作品のリライトだろうけれど、大幅に変わった部分もあるだろうから、前の作品も見たいと思う。同じ作品をなんども手直しする機会に恵まれるのも彼の良いところじゃないかな。まるでそれも宮沢賢治のようだなと思う。
評判も良く、正直にいうと「誇らしい」気持ちが大きい。応援しててよかったと思う。彼を天才と呼ぶのはもうよそうと思っているのだけど、一人のファンとして思うのは誰か役者を「素晴らしい役者、大きくなる」とかその将来性へのコメントを出したりする時に「貴方にだってそうあってほしいし、そうであると信じている」と思うファンがいることを忘れないでほしいと思うんだよ。
【「カムパネルラ」と「ジョバンニ」と「ザネリ」】
桐山さんの作品は銀河鉄道の夜がモチーフの作品が多い。「雨降る正午、風吹けば」では(史実とのズレのため削除済みな部分だが)坂本治郎が物語の冒頭で受け取る本は「銀河鉄道の夜」だったし、「小生とアトムと世界列車」は言わずもがなだし、「万雷の喝采」では主役の二人が実際に演ずるシーンが出てくる。
こう思うとだんだん物語の本質に近付いている。彼が銀河鉄道の夜をそのまま舞台化する日が近付いている気がしてならない。いつか満点の星空を眺めながら、彼の作る「銀河鉄道の夜」を見たい。
この作品に出てくるカムパネルラとジョバンニは何処か硬質的なイメージを受け取る。この二人が存在するのは二つの意味があると思う。ひとつは「銀河鉄道」という場所を提供するため、もう一つは穂乃果、恵美、春の関係性をジョバンニ、カムパネルラ、ザネリに落とし込んで3人への感情移入に「銀河鉄道の夜」を織り込ませるためだと思う。
一昨年の「FIRST BOOK」にはザネリが登場するけど、今回は登場しない。私たちはザネリを想像するしかないのだけど、そこにザネリの役を担う恵美が登場することでその必要がなくなる。もちろん、銀河鉄道の夜におけるザネリではないから齟齬はあるんだけど、ザネリはカムパネルラに救われるという意味でえみつんの心情とオーバーラップすることで、「カムパネルラ」に救われた後のザネリを我々は想像することができる。
そういう明確な意図を持って、「ザネリ」は物語から排除されたし、ただのいじめっ子1、2だった役に「恵美」「春」という名前が与えられたのじゃないかな。そういう重ねてくれという演出もあったことだし。
万雷の喝采とは演じている役者が違うからとはいえ、全く違う描かれ方をしている。万雷の喝采では、「今」銀河鉄道の夜を演じる二人に感情を重ね合わせるのに比べ、この作品ではキャラクターとネームドを重ね合わせる。ライブ感とそうではない感じ、それこそが万雷と銀河鉄道のなかでの違いだし、それに二人がライブ感がないのは太宰治が嫌いな「自己犠牲」の世界に成り立つ作品を頭の中で浮かべているからに過ぎないのかなと思います。
【「太宰治」と「宮沢賢治」】
誰の頭の中の話かと聞かれて、大半は宮沢賢治の描く物語の中で二人が出会った物語だと読むんだと思うんだけど、私はそうではなく、太宰治が服薬自殺をして昏睡する中で見た物語だと解釈した。そもそも太宰と賢治では活躍した時代が違う。
太宰治は1909-1948、宮沢賢治1896-1933。特に銀河鉄道の夜は1934年出版本であるため、文壇の中で人気を博し佐藤春夫の弟子であった太宰治が宮沢賢治を知らないはずがないのだ。それでいて、1947年の太宰が「銀河鉄道の夜」を知らないはずはない。
この物語は太宰が人間失格を生み出すための物語であり、そのためにジョバンニ、カムパネルラ、宮沢賢治も、トシも、穂乃果も存在しているのだろうと思う。だから太宰治は宮沢賢治を忘れていたし、空想で作り上げた作品から浮かび上がる宮沢賢治像でしかない。あの物語は宮沢賢治の物語の皮を被った太宰治の物語であろう。
めちゃくちゃ好きなシーンがあって、それは太宰治が「このペンは価値がある」と自分で言ってしまうことなんだけど、自己評価がバリバリに高い太宰治に大拍手。その実、太宰はかなり肯定感が低めな人間なので穂乃果が乗車した時に「僕の作品は!」というの納得がいく。作家の業を背負っているというか「書かずにはいられない」という作家の性はエゴイズムの極致のようなものであると二人の「エゴ」から感じる。エゴイズム(利己主義)の話をすると長くなるので、あまり深くは話さないようにする。かけなくなったから死ぬ、という考え。「雨降る正午」の坂本治郎先生を思うなどする。
太宰の「死にたくないけど、生きたくもない」という気持ちがとてもよくわかる。つーかほとんど自分が撒いた種ではあるんだけど、それが原因でいろんな人を巻き込んで堕落させていく太宰は自分のことが嫌いだっただろうなと感じる。
「人々に絶望しながら、人々に甘え媚びた男」太宰治。自分の行き先に悲観的な男であった太宰は生かされていたという表現が正しかったのかもしれない。「死にたい、死にたい」は「生きたい、生きたい」だという見方もある。だけれど、その死にたいが生きたいを超越してしまった時、人は生を断つのかもしれないね。
太宰は人間を嫌っていた、周りの人間の汚さ、けち臭さ、陰謀や嫉妬に取り囲まれていた。そうして、自殺の前に自らが理想とする(太宰の周りに少なかった、かつ想像上の)宮沢賢治、宮沢トシに出会うことにより、己の人間性の欠落を実感し、「人間失格」と称したのだろう。そして記して、そうして死んだ。この物語の行く先は「死」であって、それが「銀河鉄道」なのだと再認識する。
【再び、清水春、松村恵美、穂乃果】
陽キャムーブかましてる春、これ一番嫌われるやつなんだけどなんとなーく受け入れられてるのは春のキャラクターだからだろうし、春自身も嫌われ者っぽいところがあるのが面白い。3人だけの世界で生きているように見える、色々を容赦なくカットしているからね、それが物語を単純化してわかりやすくしている。ただふと、春が持つ独特の闇というか、この子はこうして明るく演じているのかもしれない、心を壊さないようにしているのかもしれないと思って苦しくなる。他人を拒絶することで穂乃果の喪失を越えようとする恵美と、それでも明るくいることで穂乃果と友人だった自分を忘れぬ春。人が苦しみから離脱する時、己ではどうにもならないものは他人とともに乗り越えるしかないのだなぁと実感する。
作中、何度も銀河鉄道の夜のシーンはあるのだが
このシーンはない。まるで意図されたようにカットしてある。だが賢治が伝えたかったであろうことは後半で明かされていく。ジョバンニとカムパネルラの会話を、二人の旅を太宰と賢治が聞いていたのかはわからないし、もはや舞台装置である二人は永遠に銀河鉄道の夜を繰り返しているのかもしれない。
新版と旧版で銀河鉄道の夜は印象が大きく変わる。太宰が好きなのは新版だろうな、なぜなら賢治は自らの死を目前に書いたものだから。だかそのどちらも賢治で、そこには賢治の思想がある。
春は決してジョバンニではないと思う。
春はジョバンニのように本当の幸福を求め生きていくことを肯定しない。ただ、ただ生きていこうとする。だから二人の「私、全然わかんない」は当然だ。明るい見方ではないのかもしれない。だが己の胸中を吐露することで軽くなるものはある。
賢治の作品の中、こんな言葉がある。
人生とはそういうものなのかもしれないなと少し考える。
ずっと、穂乃果の死と向き合っていくこと、その罪と罪悪を孕んで生きていくこと。二人の「わかんない」は作中の「本当の幸とはなんだろう」「僕はわからない」と同等のシーンで、それを「ジョバンニ」「カムパネルラ」ではなく二人が話すからこそ意味のあるものだ。
【終わりと続いていく物語】
罪と罪悪を背負い生きていくことの重さを知っているのは太宰だ。
太宰は過去に心中を試み、相手が死に、自分が生き残ったことを「私の生涯の、黒点である」としている。
それは自らの自死ではなく、田部あつみの死を思って言ったのかもしれない。彼もまた遺された側である。トシを失った賢治と、自分だけが生き残ってしまった太宰。二人は死の痛みを知っている。
さて、物語の中で「ジョバンニ」「カムパネルラ」「ザネリ」という役割が終盤になって曖昧になる。
そうトシが問いかけたところで物語は終わりへ向かう。太宰は物語は終わりがあることを知り、それを己の手で迎えようとしていた(真実はどうあれ)。賢治があそこまで物語が終わってしまうことを拒否するのは、トシとの別れがあり、そのトシとの別れを実感してしまうからと考えるのが妥当だが、「未完成」であることを完成だと思っていたからで「ほんとうの幸」を求める旅を賢治自身もしたかったからであろう。
ジョバンニとカムパネルラ。
賢治とトシ。
春と穂乃果。
そして太宰と賢治。
現実を突きつける物語の登場人物たち。つまりここで「銀河鉄道の夜」と「銀河鉄道のなかで」の壁が壊れる。これは想像できたことであったけど、台詞が急激にチープになったのは作家の限界とも呼ぶべき事象なのかもしれないな、唯一厳しいことを言うのであればここだろうと思う。
100年後も生きる物語という表現は素晴らしいのだけど、やはり「未完成こそ完成」という賢治の言葉の引用を期待した。ただ作中意図して台本を閉じるという行為を見せたのだろうことはわかった。ただト書きの「どこか希望を持った歩み」をどこまで意識したのかはわからない。大事な部分だと私は思うが、演出・演技から感じ取ることはできなかった。ハイコンテクスト的な表現なのかもしれないが、それは「そうである」とわからなければ意味がない。
死んだ人間は降りるとされている「銀河鉄道」、カムパネルラは作中でそこから降りる表現はない。ただ気付いた時にはいなくなっていたのだ。そうやって思うと、この銀河鉄道は賢治が作ったものではなく太宰の夢想の中の物語であると納得できる。
この作品の中で太宰はジョバンニだ。死と生の狭間にいる。じゃあカムパネルラは誰だ?と考える時、真っ先に浮かぶのは賢治かトシ。そうではなく、太宰と対になるカムパネルラは穂乃果なのだ。この旅は太宰と賢治の旅ではなく、太宰と穂乃果の旅だというのが物語の帰結である。
春はジョバンニではなく、恵美もザネリではない。
賢治は賢治でしかなく、トシもトシでしかない。
しかし物語の中で、太宰は太宰であったが「本当の幸とは」という問いを考え続け、己の生に一番と向き合った太宰はジョバンニであり、「自己犠牲」の末に死んだ穂乃果こそカムパネルラという役割を与えられた人間なのだというのがわかる。
ジョバンニは生きていくし、太宰だって、遺された春も恵美も生きていく。そういう続きがこの物語にはあるなと思っている。
(以下、感情的な感想)
そういう人たちのための物語。
生きていく人間に向けた物語。死者への手向というのはある生きている者の偽善的な満足に寄るものもあるんだなぁと思う。
その想いが第四の壁を越えて私たちに届く。きっと彼の「僕は苦手」も、「ぼくは満足に生きた」も、わたしたちが受け取る物語。その自分なりの解釈や感じたこと(それにはもちろん「推しが美しい」であれ「推しが最強」「かわいい」も含まれる)は、それぞれの胸中で成り立つものなので誰かが定義するものでない。あなたの感想を大切にして、その大切にしている人に届けて欲しいなと思う。
芸術とは「エゴ」によって成り立つものだ。それがなくては生きていけないと思うのもエゴだし、今を生きるために「利用」する私だってエゴイストだなと思うわけです。
だからそのままでいいよ、自分がそれを恥じる必要はないよ。間違ってないよ、間違いはないよ。偽善と言われるかもしれないけどとか前置きはいらない。
あなただけが正しくある必要はない。善良な人間である必要はない。そうだと自分で言っていただろうよ。間違ってないから、そのままでいて。
【「さようなら」と「グッドバイ」】
「さようなら」と「グッドバイ」には明確な違いがある。
さようならには次があり、グッドバイには神とともにあれと祈りが込められている。
賢治は生前キリスト教的な思想も持ち、キリスト教徒と親しくしていたのだという。「雨にも負けず」のモデルはキリスト教信者である斉藤宗次郎とされており、賢治が「そういうものに私はなりたい」と書くのは、賢治が自己犠牲のシンボルなのでなく、賢治はそうなりたいと渇望していた人間だったからであろう。だから賢治がジョバンニであるという解釈それ自体も間違ってはないのだ。
太宰は入院中に聖書を読んでいたのだというし、「人間失格」にもキリスト教と仏教の違いが出てくる。ここもまた賢治と太宰の考えの似ている部分であろう。太宰は決して望んで爛れた生活を送ったわけでなく、真っ当な人間になろうとしたけれど、もう手遅れだったというわけだ。
太宰が「グッドバイ」の意味を知らないはずがない。だから幕切れのグッドバイには「神とともにあらんことを」という意味が込められているし、未完の作品「グッドバイ」にだって込められていると思う。オシャレでしたね。
ここまでぜーーーーんぶ想像と妄想!!!!!!!
お読みいただきありがとうございました。出演者の方を含め、とても大切な舞台観劇となりました。
主演の二葉さんは声よし、顔よし、背姿よしと、出てきた瞬間「理想の太宰治」だったので、思わず「本物か?」って思いました。退屈そうな顔をしている時も美しいってすごいですね。
最後のシーン頬杖をつきながら「グッドバイ」というシーンの色気、凄まじかったです。
ありっさは一体どこまで成長するのかわからん。あの美少女的な見た目というか、漫画的なあのビジュアルは2.5とかでも見てみたいなと思うので・・・。
林千浪さんのトシ。あの「賢治さん」の瞬間に劇場の雰囲気を変えてしまって鳥肌。古き良きという表現の似合うトシさんでした。マジで優秀そう。
スタオベに似合う舞台でした。
「明日を生きるのは難しいけど、もう少し生きていよう」
そんな風に思うのは難しいし、そう思えるまでもう少し自分も時間がかかるんだけど、少なくともアレとコレとソレまでには生きていようかなと思うので、推しというのは偉大だなと感じます。
推しの劇作家である桐山瑛裕先生の次回作は森絵都先生の不朽の名作「カラフル」です。ついでに宣伝しておきます!乞うご期待!
【公演概要】
朗読劇「カラフル」
原作:森絵都
脚本:桐山瑛裕(SUPER NOVA)
演出:加藤光大(ソフトボイルド)
公演期間:2022年11月26日~30日
東京ドームシティ シアターGロッソ
チケットの購入はこちら
「本当の幸とは、なんだろう」
なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上り下りもみんなほんとうの幸福にちかづくひとあしずつですから
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