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そして生きていく | 離婚
離婚を受け入れた日のことを、今でもよく覚えている。
ある日の日曜、ある人からのタレコミの電話だった。
「君のご主人と◯◯って奴が、盛岡のバスケの大会で手を繋いで歩いている」と。
血の気が引いた。
相手はアイツだったのか…!
その瞬間、手足は痺れ、呼吸は乱れ、頭は割れるように痛い。過呼吸だ。
オンナの存在に気づいていながら、
まだ離婚を受け入れられず再構築を望むわたしは絶望した。
子どもたちは近所に住む実家に泊まりに行っていて、わたしは一人だった。
泣きながら車を走らせた。
どこか遠くへ、誰もいない遠くの先に行きたかった。
どうしてこんな目にあうのだろう。
わたしは不幸になるために生まれてきたんじゃない。
何不自由なく愛情を注ぎ育ててくれた両親に申し訳なかった。
消えてしまいそうに押しつぶされたわたしの心は、もう二人の息子の将来を思い描く気力は残っていなかった。
もう生きていけない。
それがわたしの出した結論だった。
どこか遠くへ、一思いに自分を消せる場所を探して車を走らせた。
2時間近く走り続けても、一向に冷静になる様子は見られなかった。
気が強くて男勝りなわたしを、
こうも弱くしてしまうほどにショックな出来事だった。
不倫を知った日
6月、ある日曜の夕方だった。
私は実家に子どもたちを迎えに行く前に夕食を作っていた。
前日は会社の飲み会で久しぶりにお酒を飲み、そのまま寝てしまった私は、
夫が夜勤明けで帰ってくるなり、一緒にお風呂に入って、ゆっくりと夫婦の時間を過ごしていた。
一緒に買い物をし、その後に夕食を作っていた。
今でも覚えている。
その日のメニューは夫の好きな餃子だった。
「離婚」との出会い
当時、販売されたばかりの夫のiPhone3Gが鳴った。
普段、ケータイを見ることはなかったが、ふいに背中を向けた夫に違和感を感じ、わたしは背後から覗き込んだ。
「どれ、浮気チェック」と冗談混じりで。
「ねぇ、もう奥さん帰ってきた?」
差出人は会社の男性の名前で登録されている。
それなのに、「もう奥さん帰ってきた?」とは何を言っているのだろうか?
その瞬間、怒りが込み上げた。
そして間髪開けず、夫は言った。
「離婚してください」と。
6ヶ月の別居と調停離婚
それからの日々は絶望だった。
ショックと不安、少しの希望。
毎日、精神的に不安定だった。
それでも仕事も休まなかったし、子どもたちには気丈に振る舞った。
会社に悟られるぬよう、子どもたちに影響しないよう、なんとかギリギリ呼吸していた。
この時、長男は小学1年生・次男は3歳だった。
そんな不安定な日々を3ヶ月過ごした頃に起きたのが「バスケ大会手繋ぎ事件」だったのだ。
それでも生きると決めた日
結果的に、この日が弱い自分との決別の日となった。そして今も、わたしは生きている。
鵜の巣断崖の先っちょを目指し、意識朦朧でフラフラ歩くわたしを見つけたのは、姉妹のように育った従姉妹のお姉さんだった。
「ともこぉ!」と泣き叫ぶ声が聞こえた気がした。でも振り返っても気のせいだと思い前を向いて歩いた。
でも、気のせいではなく従姉妹夫婦に身体を抱き寄せられた。
地面にうなだれ、声をあげて泣いた。
この日が、わたしの心だけ死んだ日。
弱い自分の魂だけ、ここに捨てていくことにしたのだ。
警察に捜索願まで出されたようで、警察署に出向くことになった。
そこには、元夫が以前お世話になったことのある刑事さんがいた。
「やっぱり彼はダメだったか…」と、刑事さんはわたしの肩を一度だけ叩いた。
姉夫婦や従姉妹夫婦に連れられ、実家に行った。
情けなくて、惨めで、息子たちの顔が見れなかった。
わたしは、母の膝に縋りつき、
子どものように声をあげて泣いた。
「お母さん、わたし幸せになれるかな?」
そして母は言った。それも怒り狂ったように。
「何言ってんの!
自分の幸せより、子どもの幸せ考えなさい!」
おっふ。なんちゅー厳しい母だろう。
こんなときくらい、優しい言葉かけてくれよ。
その一言で冷静さを取り戻し、我に返った。
「アホくさ。終わりにしよ。」
そして指輪をトイレに流し、
翌日には裁判所に調停離婚の手続きをしに行った。
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