I Wanna be like You
君のようになりたい。
僕がディズニーの音楽の中でランキングを作ったら、相当上位に入る一曲だ。
今日のnoteで書きたいテーマ、キーワードが正にこの言葉に尽きていたので、noteのタイトルはこれにしてみた。
僕は先日友人と電話していた。前に一度noteで触れた6歳差(今回の電話で判明したのだが、実は5歳差であったらしい)の彼。30倍かっこよくなった彼と電話していた。そちらの記事は以下から見て頂けたらありがたい。
さて、電話の中で彼は僕に「君のように生きたい」と言った。
僕も言った。「あなたのように生きたい」と。
僕にとって彼の存在は本当に羨ましいものだと思う。
彼の深く深く考える思考のあり方や、謙虚(過度な時もあるけれど)な姿勢、日頃は明確に見える事はなくても本質的にすごく魅力的なものを持っているところ。
そういうところがすごく好きなのだ。
僕、志賀暁子はここしばらく以前に比べてかなり言葉を失っている。声を奪われてしまっていて、言葉にならないことが本当に増えてしまったと感じているのだ。以前の僕にとって何よりも正しい事、僕の人生そのものというのは「言葉にすること」であった。けれども、今はそれをすっかり喪失してしまっていた。
彼は元々あまり言葉にしないタイプの人だ。ものすごく考えて、初めて言葉にする。ある種、不器用で小難しい人だ。
でも、僕はそんな彼が羨ましかった。今の僕に必要なのはその「長考」であると思ったからだ。
そんな言葉を大切に扱う彼が僕に問いかけてくれた。
「今、志賀くんがこれだけは正しいと言えることはなんですか?」と。
僕は正直分からないなと思った。先ほど述べたような「言葉にすること」はもう使えないからだ。少なくとも今の僕にとってそれは正しくはなかった。
少しだけ沈黙をして、考えて、頭の中を探り、引っ張り出せたのは、「あなたが素敵だと感じられる事、好きだと思う事、それを伝えたいと思う事は正しいと思う。間違いないと思う」という言葉だった。
僕にとっては以前記事にも書いた通り、彼の見た目の変化に対して非常に衝撃を受けた。陳腐な言葉ではあるけれど、とりあえず「かっこいい」と「素敵」だと思わされたのだ。
僕はそれを彼に伝えたいと思ったし、その僕自身が持った感覚を間違いないと思った。他の誰が何を言おうと「僕にとって」は彼は絶対的に尊かった。
正しかった。
僕にとって、それが目の前に出ていた、今の僕の「正しい」気持ちであった。
彼は「僕自身がその対象になっていることはいったん置いといて…」(褒めている、彼がとても好きだと思っている僕からすれば「置いておくな!それ、なんなら一番大事!!」って感じなのだが。彼は大概照れ屋である。)と切り出したうえで「僕はそういう風に目の前にある好きなものに好きって言えること、素敵だって思えることを正しいと思える感覚は本当に素晴らしいと思います」と言ってくれた。
でも、僕からも続けた。
「そう思うのは、思わせてくれるのは、あなたです。あなたの魅力が私にそう信じさせてくれるんです」
彼は一瞬無言になった。あ、絶対照れたなと僕にも分かった。
ちょっとした会話の後、彼は僕にこう言った。
「僕は「好き」とか「素敵」って感じられる事、それを伝えることを正しいと思えるそういう志賀くんが素敵だと思います」
「僕もそんな志賀くんの正しさを正しいと思ったので、僕もその正しさを実行してみようと思いました。志賀くんは素敵です」
僕が突然とも思えるその褒め言葉に戸惑い、ほんの少しだけ言葉の解釈に詰まり、解釈し終わるその直前。
「……はっず」
小さな彼のつぶやきが零れ落ちたのが聞こえた。
僕はその呟きに思わず笑った。
恥ずかしがり屋の彼らしい台詞。あんなにかっこよく僕に言葉をかけてくれたけれど、彼は彼なりにやっぱりちょっと葛藤があるようで。それがどうにも僕には面白かった。美しくて、愛おしく映った。
そういう彼が好きだなと思った。幸せになってくれよと思った(大概大きなお世話)。
何より本当に素敵だなと思った。間違いなくかっこいいなと思った。
ねえ、僕の友人さん、大好きです。
僕は、君のように生きたい。
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