僕が韓国語を学ぶのは

現在僕は20歳。
現役の大学生だ。

大学では第二外国語として韓国語を学習している。
高校でも韓国語の授業があって、そちらも選択で受講していた。

僕が他の言語ではなく韓国語を学ぶことを決めたのは、中学生の時のある経験だった。

今回の文章は僕が所属する火樹銀花の仲間、葉山葵々(はやまきき)さんの文章を読んで、僕も僕が第二外国語を選んだ理由を文章にしてみたいと思ったからこうして書く事にした。
葵々さんの文章も引用しておく。
彼女の第二外国語はロシア語だ。つい最近、そして今も話題になり続けている騒動が起こっている国についての話、ではなくて、一人の人間の思いが綴られている。賛成、反対、そういう話ではない。

僕はそんな彼女の文章がすごく好きだ。
愛すべき、人間らしい、人間臭い文章だと思っている。
僕もまた彼女から影響を受けて、今回の文章を書きたくなった。
だから、今回は僕の第二外国語、韓国語と、それにまつわる僕の経験の話をさせてほしい。


中学2年の時、クラスに韓国人の男の子がやって来た。
背が高く、眼鏡をかけた男の子。
普通にかっこよかったと思う。
昨今の韓国アイドルとまでいかなくても、大人びた雰囲気がとても魅力的だったことを覚えている。

僕は別に彼に恋をしていたりはしなかったのだけれど、彼のことを素敵だなあと思っていた。

彼は少したどたどしいとは言え、日本語も出来たし、違和感もなくクラスに馴染んでいた。私も彼を「韓国人」だと明確に認識したことはなかった。
知ってはいた。けれど、理解してはいなかったのだ。

でも、たった二回だけ、僕は彼を自分とは違う人間なのだと、彼は「韓国人」なのだと思ったことがある。

一度目に、彼が私とは違う人なのだと違和感を明確に持ったことに気づいたのは社会の授業だった。
日本国憲法で守られていた自由がビンゴのように升目に書かれたプリントが配られて先生がこう言ったのだ。

「この中から一つだけ自分が大事にしたい、残したいと思う自由を選ぶとしたら、あなたはどれを選びますか?」

もう6年近く前の事で、残念ながら僕自身が何を選んだのかは忘れてしまったけれど、彼の解答だけはよく覚えている。

彼はクラスで唯一「信教の自由」を選んだのだ。
彼は他の誰も選ばなかった「信教の自由」を選んだ理由をこうはっきりと述べた。
「僕はクリスチャンで、それを大切にしたいからです。」と。
私は年上の知り合いにクリスチャンがいたので、それほど宗教や信仰に対して違和感はない方のつもりだったけれど、自分と同じ年の、この目の前の同級生の彼がそう言ったことには少なからず驚いた。
彼のその堂々とした態度が今でも忘れられない。

ちなみに僕、というか、僕という存在を含んだ「本物」さんはその後、キリスト教信仰を持つに至り、実は彼と同じ信仰を持つことになるのだが、それは今回の話には関係ないので割愛する。
でも、これもある種の縁と呼べるのかもしれないと思うと少し面白い。

僕が彼を明確に自分とは違う人間だ、具体的に言えば「韓国人」だと実感した事件が二度目の出来事だった。

それは学校ではなくて、塾の模擬試験の時だった。
彼と僕は塾が同じだったのだ。
とはいえ、通っている曜日が別だったので、普段は滅多に会っていなかった。

その試験の日、たまたま彼と会った。
試験会場がビルの6階で、我先に帰ろうと多くの塾生がエレベーターを待っていた。
僕と彼はその人の波を抜け出して、階段に向かった。
長い長い階段を一段一段下りながら、気軽に世間話をしていた。

そして、もう少しで下に着くというところで、僕は今日の試験が受験に通じること、言葉を変えれば「未来」に通じる事を思い出し、彼にこんな質問をした。

「○○くんはどこの高校に行くの?大学はどこに行くの?何になりたいの?」

彼は市内のミッション系の高校の名前を言った後に、何をためらう事なく、こう告げた。

「高校卒業したら、韓国に戻るよ。僕は兵役に行かなくちゃいけないから」

僕はその時、金槌で頭をぶん殴られたかと思った。

「兵役」という言葉があまりに現実離れしていて、僕の頭に衝撃を与えたのだ。

「兵役」ということは、僕にとって戦争に向かうのと同じくらいの感覚だった。この人は僕の知らない何処かで死ぬ可能性があるのかと、その『死』という恐怖に向き合うのかと、その感覚があまりに強い力で僕の心を冷たく塗りつぶしていった。

ちょうど下に着いて、僕は迎えに来ていた母の姿を見つけた。彼の方も同じように家族の姿を見つけたようで、そこで軽くバイバイをしてお別れした。

僕は母の元に行って、少し安心している自分がいたことを覚えている。
彼と一緒にいる、彼が自分とは明確に違う人間だと分かったのがあまりにも怖くて、隣にいるのが怖かったのだ。
今ならわかる。僕はあの時、そんな「兵役」という(当時の僕にとって)ひどく恐ろしい文化を当たり前のように持っている国、それは「韓国」という国であり、その故郷を持つ彼が怖かったのだ。自分との違いに圧倒され、あまつさえ恐怖を抱いたのだ。

今ならわかる。
韓国のことも多少なりとも学んで、僕がかつて怯えた兵役の背景には日本が加担していることも知っているし、今もなお戦争の中で起こった問題が韓国と日本の間に残っていることも知っている。

高校時代の韓国語の先生は韓国と日本の間に起きた問題について非常に熱心な人で、僕がそういう背景を持って韓国語を選んだことを知った時、「じゃあ、なおさらちゃんと勉強しないとな」と声をかけてきた。
確かにそうなのかもしれないけど、僕は今でも少しもやついている。

僕が知りたいのは「韓国」という国ではない。
今も昔も「彼という存在の背景としてある韓国」という場所だ。

中学生の時、僕を含めたクラスの皆は誰も韓国と日本との問題については知らなかったと思う。全く知らない、と言っても過言ではなかったと思う。
でも、だからと言って差別が起こったことはない。彼はいじめられてなんかいなかったし、むしろクラスに溶け込んでいて、違和感もなかった。
それはある意味、韓国と日本の歴史を知らなかったからだという事も出来ると思う。こんなことを言うと怒られてしまうかもしれないけれど、僕等は韓国人であるという事実を曖昧なものとして認識していた「子ども」だったから上手くやっていたのだとすら思う。

僕が彼に対してほとんど違和感を感じていなかったのがいい例だ。もし僕等が韓国について知っていたなら、こんな風な関係は築けていなかったような気もする。
もちろん、これは推測だし、もしかしたらそうではない過去もあったのかもしれない。でも、僕はそう思ってしまう。

今、世界で戦争の話が出てきている。
戦争に対する思いはあるし、賛成反対に関する意見もあるが、ここでは語らない。語るかどうか、正直迷っているところもあるからだ。

僕は気分屋でもあるので、これを書いた次の日には戦争に関して思う事を記事にして公開しているかもしれない。でも、今現在、僕は戦争に関する話を公開する気はひとまずない。

でも、戦争があろうがなかろうが、それにまつわる問題が過去にあろうがなかろうが。
僕が彼に対して持っている、持っていた思いは変わらない。
それはあくまで「個人」であって、「国民」としての彼ではないからだ。

こんな風に書くと「じゃあ、国として向き合うべき問題は無視なのか」「彼が韓国人なのは変わらないだろ」「日本人の自覚を持て」とか言われるかもしれない。そういう言葉に近いものをもらったこともある。

でも違う。僕はそういう問題から顔をそむけることと彼との思い出は関係ないと思っている。僕にとってはどちらも同じように大事だ。

例えば、僕がある特定の人種の人と仲が良かったとして、その人の人種が多数派の人種にとって差別対象であったなら、自分がその人種の一部であったなら、ひどいなあ、で終わってはいけないと思う。僕はその人を大切に思うのと同時に、その人に背景に対しても目を留めるあり方を持てるのが理想だと思う。少なくとも自分のいる場ではその思いを主張するべきだと思う。

それは、僕が思う個人間で出来る主張の範囲だ。
例え、戦争が起きようとも、僕が自分にとって大切な人を愛する事は変わらない。それは国としての境界を越えるからだ。僕ら個人の問題であって、国は関係ないからだ。

でも同時に責任逃れとかでも何でもなく、僕は戦争とか、それらの問題が僕一人で解決出来るものではないことも知っている。だからこそ、僕はその現状を作っている一欠片としてそれに向き合いきれないこともあるだろうし、向き合いたいと思う一方でどうしてもそう出来ない現状になってしまう可能性もあると思っている。

正直ままならないと思っている。
どうにも出来ないと思っている。

だからこそ知りたいと思う。
僕等は言語や文化を知る努力をしていくのだと思う。

理解出来ない何かに立ち向かう時、その背景を理解して居れば、意味合いを知っている分、何も知らないことで相手を否定せずに済む。少なくともうわべだけを見て、傷つけずに済む。

僕はあの日、ショックを受けた。
少なからず、かつての彼に「勝手に」失望して、傷ついた。
彼が僕の反応をどう受け取ったのかは今でも聞いていないので知る由もない。でも、頭をぶん殴られたかと思った僕の反応は少なからず好まれるものではなかったと予想するし、そういう意味で彼を傷つけていたかもしれない。

でも、あの時、僕がもし兵役について少しでも知っていたなら、あんなに怯えずに済んでいたと思う。少なくとも、あんな風に振舞わずに済んだかもしれない。

知識を付けた今だから思えることもあるのだ。
知識がなかったころの自分が悪かったとは少しも思わないけれど、それでも、今言えること、考えられることに誇りもあるのだ。

長々書いて来たけれど、要はこんなことが言いたい。

僕が韓国語を学ぶのは、僕が彼について知りたいからだ。
僕という一人の人間の記憶に残り続けている彼を、彼の持つ背景を知りたいからだ。
彼が帰ると言ったその国、「韓国」について、知りたいからだ。

僕がかつて越える事の出来なかった境界を言語という方法で乗り越える気がしているからだ。
もしかしたら何も変わらないかもしれなくても取り組んではみたいのだ。戦ってはみたいのだ。

戦う、は今の情勢の中でちょっと不謹慎な単語かもしれないがあえて使う。
僕は戦いたい。
自分達が勝手につけてしまっているかもしれない境界を越えるために。

ここまで読んでくださってありがとうございました。

あなたに祝福あれ。
あなたを大切に思う誰かに祝福あれ。


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