5900文字小説。
なかなか新作を書けないので過去のお蔵入りをアップいたします。帰りの電車でお読みください。
ベンチプレス 作・よーかん
土曜日のこの時間は、エアロビクスのクラスが始まるまで有酸素運動のセクションが混雑しているため、須川正作は平日より30分遅らせてジムに来てウォーキングマシンを使うことにしている。運動量は平日と変わらない。マニュアルモードを選択してスタートボタンを押し、体を慣らしながらスピードと傾斜角を序所に上げ、時速6.5キロ傾斜角15%まで調節してからキッチリ45分間歩き通す。
空が重たい雲に包まれている。晴れていて風が強ければ、街の向こうにうっすらと富士山の形を確認できる日もあるが、駅前ビルの四階から眺めるこの風景は、どこの地方都市もがそうであるように、どこか昭和のままでゴミゴミとしていて薄汚れている。4時42分。ロータリーの山王病院の送迎バスがそろそろ発車するはずだ。ひと月ほど前に線路向こうのパチンコ屋が、改築工事でテレビ型の電光看板を壁に設置してしまい、正作には見慣れないロボットや少女の絵がチカチカと光っては消るようになった。始めの頃はうるさくてウンザリしたものだが、いつの間にか眼が慣れてしまったようだ。それにしても、あの醜い看板があることで、どれだけ客が増えるというのだろうか。土曜の午後にパチンコをするような男にだけはなりたくないなと、正作はタオルで額をぬぐいながら電光看板から目をそらした。小雨が降り始めたのだろう。駅の階段を上ってきた主婦が空を見上げて傘を開くと、あとから来たサラリーマンも、携帯電話を耳に当てたままカバンから折りたたみ傘を取り出して器用に開いて歩き始めた。
ウォーキングマシーンで有酸素運動を45分。その後、基本的な筋力トレーニングをウェートマシーンでこなし、マットの上でストレッチをして、ロッカーに戻りシャワーを浴びる。ジムが閉館日の第3第4月曜日を除き、一人娘の多恵が就職し家を出てから5年間、正作はこの日課を欠かしたことがない。20年前、正作は郵便局を辞め、妻の実家の土地を担保にデイリーヤマザキのフランチャイズオーナーになった。多恵の学費と経費削減を口実に、正作が夜間シフトを一人でこなようになってすでに10年たっている。
あと7分。正作は額の汗をまた拭うと、ついさっき2台向こうのマシーンで走り始めた若者をチラリと盗み見た。若者はウォーキングマシーンに慣れていないようだ。ひどく足音がうるさい。スタートしたばかりだというのにすでに全速力の勢いで走っている。あれでは負担がかかりすぎる。ウォーキングマシーンで走るときはカカトから着地して足の裏全体でベルトを舐めるように走らないといけない。この時、腰の位置を上下させないよう姿勢を決めないといけない。彼がしているのはアスファルトの走り方だ。跳ねて走ると膝と足首に悪い。まだスタッフは気づいていないようだ。あのモーター音と足音の騒音に気づかないのは奇跡に近い。若い女が機械の前で首を少しでも傾ければ、間髪いれずに声をかける彼らは、あたり前ではあるが、あんな薄汚いTシャツを着た男には見向きもしない。しかたがないことだ。ワタシでもあの若者に声をかけようとは思いわないだろう。
若者は坊主頭がそのまま伸びてしまったような髪型をしている。ああいう四角い顔をした若者はいまどき珍しい。背は180より少し低いくらいか。肌が汚い。スポーツ経験はなさそうだ。大柄で体力はありそうだが体型が不恰好だ。猫背というか、エラがはったアゴを突き出し、肩を必要以上に怒らせて走っているせいで、肉厚な背中が重たく見えて、全体的に不器用な印象を受ける。年齢は24・5、いや、成人したばかりかもしれない。あれは童貞だ。固さというか、気難しさというか、あの薄汚さは童貞特有のものだ。ああいうタイプがふらりと夜中に店にくることがある。シャケのオニギリ、生茶、カレーパンかアンパン、酒を買わないのに柿の種を買ったりする。立ち読みはするがあまり長時間はしない。成人誌は買わないし、セクションの前に立つことさえしない。タバコを吸うタイプと吸わないタイプに分かれるが、基本的な雰囲気は同じだ。垢抜けず、固くて、重たい。レジに商品を置くだけで何も言わないで代金をはらう。しかしカレーパンをビニールに入れようとすると、シールだけで良いですと突然言ったりする。ワタシが若い頃そうであったように、存在するだけで周りの人間を疲れさせてしまうタイプの固くて重たい若者だ。
時間だ。須川正作はパネルに手を伸ばし、傾斜角を0%にもどすと、クリアボタンを三度押しウォーキングマシンをストップさせた。スピードを落としていくベルトから慣れた身のこなしで降りると、冷水機で少し水を飲み、汗を拭いながらラットプルダウンマシーンに向かった。
ラットプルダウンマシーンは頭上にあるハンドルを引きおろすことで広背筋を鍛える機械だ。いつものようにシートに座り、太ももを押さえるパッドを調節し、ウェートを32kgにあわせる。頭上のハンドルの両端をしっかりと掴みジワリと伸びる筋肉を確認する。背中全体を使い両肘を脇に引き寄せるようにハンドルを引き下ろすのがこのマシーンを使うコツだ。この時、胸をはり、肩甲骨を内側にずらすように意識するとなお良い。これを力まずゆっくりと20回繰り返す。このラットプルダウンマシーン、大胸筋を鍛えるベンチプレスマシーン、そして腹筋を鍛えるアブドミナルマシーンを、順に20回ずつこなし、それを3周する。入会当初、須川正作はスタッフが作った体力アップメニューのとおり忠実にトレーニングをしていたが、太ももを鍛えるレッグプレスや、レッグエクステンション、腕の後ろ上腕三頭筋を鍛えるトライセプトプルダウンなどは、時間がかかりすぎるため省略するようになった。
若者は相変わらずドタドタと足音を響かせて走り続けている。冷蔵庫の横のカウンターの後ろにいるスタッフはパソコンで会員のファイルを整理しているようだ。もう一人のスタッフは、フリーウェイトのセクションで昨年入会してきたブラジル人の若者グループとじゃれあっている。ウォーキングマシンとエアロバイクのセクションにはあの若者以外誰もいない。ドタドタと足音を響かせて走る、気難しそうな薄汚い若者の周りに人は集まらない。その事実に若者は気づいていないだろう。自分の足音の鬱陶しさに気づけるだけの余裕があれば、童貞を続けていない。若者の顔には、油が詰まった毛穴から、ニキビの他に、目に見えない何かがジクジクとあふれていた。Tシャツのくすみとか、頭皮に付着したフケとか、フクラハギをダニが噛んだ跡とかより、よっぽど敏感に女が反応する不潔な何かだ。多恵ならあの若者が店に入ってきただけで、隙を見つけて裏に回ろうとするだろう。若者はそれに気づけていない。気づけていれば、あんなドタドタと足音を響かせてウォーキングマシーンで走ったりしていない。もう少しマシなティーシャツを着て。若者らしい運動靴をはいて。髪型を整えて。スマートに運動しているだろう。エアロビクスのインストラクターと会話をしたりもするだろう。だれも若い男ならそうするように、性欲に従って少しでもイイ女に近づけるように、見た目を磨く努力を欠かさないはずだ。あの若者はその逆をしてしまっている。たぶん面白くもない文学小説などを必死に読んだりもしているはずだ。そんなことをしたところで女に相手にされはしないのに気づかない。自分がいつでも正しくて、真っ当なのは自分だけだと信じて疑わない。劣等感の裏返しだ。精一杯あがいているのだが、悲しいことに全て裏目にでてしまっている。若い頃のワタシにもそういう所があった。もしこの時代にワタシが彼の年頃なら、あんなふうにアゴをあげて窓の外を睨みながら、ゼーゼーとウォーキングマシンと格闘しているのだろうか。
「スガワさん、コンニチハ、マイニチ精が出ますね。」
突然のスタッフの挨拶に、ハンドル引く動作が一瞬止まってしまった。さっきまでブラジル人の連中と話していた若者だ。身長は同じくらいだが、見事に筋肉が発達しているため正作よりふたまわりは大きく見える。ただし肉体の威圧感とは対照的に、職業柄か、白い歯が印象的でさわやかな好青年である。
「まあ、これ以外やることないからね。」
若者の顔に笑顔が浮かぶ。いつも同じ言葉で挨拶を返すことが、須川とこのスタッフのお決まりのジョークになっている。スタッフはマシーンのハンドルに手をあてると、須川が引くリズムに合わせて軽くサポートをし始めた。
「どうですか、そろそろ新しいメニューでも作りましょか?」
「いや、今のでワタシは十分かな。ボディービルダー目指してるわけじゃないからね。」
「ですね。須川さんは姿勢もいいし、体力もあるし、これと言って問題があるわけじゃないですもんね。」
「ありがたいことに、今はそうだね。」
ウェートが音を立てないようにハンドルを丁寧に離すと、須川はスタッフをチラリと見て、この男の名前なんと言ったか思いを出そうとした。
「では、また何かあったら言ってください。」
須川の表情から居心地の悪さを読み取ったらしく、気を使い若者が会話を早く切り上げようとした。須川もそれに気づき何か言葉を返そうとして思いを巡らせる。
「あっ、あのそこで走ってる青年さ。あのままだと、足首を痛めるんじゃないかな。正しい走り方を教えてあげたほうがいいかもしれないよね。」
スタッフは須川の目線の方を振り返ると、ウォーキングマシンでドタドタと走る青年に気づいて、ああと言うような素振りをしてから頷いた。
「ああそうですねぇ。あの走り方は少し重たいですねぇ。」
「いやなんとなくね。頑張ってるのに怪我でもしたら可愛そうだから。」
スタッフは須川に笑顔でうなずいて会釈をすると、形の良い背中を向けてスタスタと若者の方に歩き始めた。いくらワタシがこの運動を繰り返したところで、ああいう姿にはもうなれないだろう。正作は軽くため息をつくと、ラットプルダウンマシンから降りてベンチプレスマシンに向った。
バタフライマシーンに黒いサウナスーツを着た小柄な女が腰かけて、呆けたように天井を見上げている。このムスメは長続きしない。サウナスーツはダイエットには向かない。体が熱をためすぎてディハイドレーションを起こす。不快感のせいで運動することが嫌になってしまう。素人には苦痛に感じることを長期間続けることは不可能だ。たぶんスタッフがそう説明しているのだろうが、このムスメは聞く耳を持たなかったのだろう。地味ではあるが、快適な格好をしてちゃんと水分補給しながらウォーキングマシンで歩くのが、脂肪燃焼には一番効果的だと、始めの一年で10キロ落として以来その状態をキープしている正作は知っている。
ベンチプレスマシーンに腰掛けてシートの高さを調節する。エアロビクスのスタジオで、十数人の男女がプラスチックの板のようなものを床に置き、インストラクターの指示に合わせて、階段のように上り下りを繰り返しながら運動をしているの姿が見える。スッテップエクササイズというエアロビクスだ。笑顔で支持を出す女性インストラクターは、三十代前半、若く見て二十代後半だろう。体のラインを強調するようなオレンジ色のレオタードを身につけているが、下半身の筋肉が見事すぎるほど発達しているため、セクシーと言うより逞しい印象を受ける。ウェートを40キロにセットし、足元のペダルを押すことでハンドルを前に出す。手首を痛めない形で両手をハンドルに添えて、ペダルから足を離し、ゆっくりと大胸筋にウェートをあずける。ベンチプレスをすると胸の筋肉もそうだが肩の筋肉が発達するため、このマシーンを正作は気に入っていた。上級者向けのクラスだ。全員見るからにエアロビクス愛好者というタイプだと分かる。動きに無駄がない。インストラクターの正面、前列の真ん中でブルーのレオタードを着た中年の男が、汗まみれの顔に充実した笑顔を浮かべているのが鏡に見える。その横のモノトーンのレオタードを着た年齢不詳な痩せた女は、機械的で無表情だが、なぜかヒザを振り上げる姿から見えない敵とでも戦っているような怖い印象を受ける。あの茶色く髪を染めたポニーテールの少女は、骨太な体型を気にしているのだろう、尻まで隠れるTシャツで体のラインを隠してしまっている。ムスメが一昔前ならどんな男もほっておかなかったような理想的な尻をしているのが正作には一目で分かった。それが最近では太りすぎと見られてしまうのが不思議でしかたがない。動きが前後のステップから三角に流れるリズムに切り替わった。インストラクターの指示に従い寸分狂わぬタイミングで全員の動きが一斉に変わる。青いレオタードの男はそのたびに嬉しそうな笑顔を鏡に向けるのがクセのようだ。リズムに合わせ十数人が色んなステップを繰り返す調和は見事ではあるが、正作にはため息出るほど退屈な景色に見えた。背もたれにしっかりと背中をつけなおし、息を吐きながらまたハンドルを押す。力に任すのではなく、胸の筋肉の繊維一本一本を収縮させて持ち上げるイメージだ。降ろすときは、胸をはり、肩甲骨を内側にずらすように肘を下げ、意識して大胸筋をしっかりと伸ばす。呼吸を止めぬよう心がけ、正しい姿勢で20回繰り返す。スタッフに若者のことを話したことを少し後悔した。いらぬお節介だった。あの青年は、たぶん一生、エアロビクスのクラスでステップエクササイズをして汗を流したりはしないだろう。鏡の前で皆と一緒の動きをしたりする事は彼に出来やしない。万が一、このステップエクササイズに参加したとしても、またあの大きな足音を立ててヒンシュクを買い孤立するのだろう。それでも彼は周りが見えないまま、必死に動き続けるはずだ。よれよれのティーシャツを着て、薄汚い肌にニキビを浮かべたまま、肩をイカラせてゼーゼーと動き続ける。相変わらずウォーキングマシンのモーターの音が全速力で唸っている。まだ誰にも見向きもされないまま走りつづけているのがあの足音で分かる。それもいいのかもしれない。あのまま走り続ければいい。ああゆう若者は、間違ってもブルーのレオタードを身に着けて鏡の中の自分に笑顔を向けたりしないのだから。あのままでいてくれていい。須川正作はそう思うことに決めて、息を吐きながらベンチプレスマシンのハンドルを、またユックリと押し戻した。
散文(批評随筆小説等) ベンチプレス Copyright よーかん 2008-08-24 20:38:29