無関心と寛容さ

無関心と寛容さ

Twitterがコオロギ食とLGBTのトイレ問題で噴き上がっている。皆が己の正義の拳で殴っていい相手を探してうろつきまわっている。ゴロツキのようだ。

ある人が「絶対に嫌われたくない」と私に言った。嫌わないためにはまず好きにならないことだ。いらぬ期待を勝手に寄せればいずれそれに失望することになる。さらに言えば興味関心がなければ好きにも嫌いにならない。その人はとても素晴らしい魅力的な人だったが、私はその人について積極的に知ろうとすることをやめた。たぶんその人のことは今後嫌いにならないし、うまい距離感が保てていると思う。

興味を持ち知ってしまうと、その人との差異が気になってしまう。同族嫌悪という現象があり、自分と主義が似ているが徹底していない人を嫌う傾向にある。ヴィーガンのベジタリアンに対する嫌悪はベジタリアンのヴィーガンに対する嫌悪の3倍だそうだ。

Twitterは極端な考えの人の声が大きい。Twitterは色んな人がいるという性質上、極端な考えに近いが徹底していない人は、前者に嫌悪感を抱かれて攻撃されやすい。そしてレスバトルがはじまる。

なので、その人との差異が気にならない程度にまで適度に無関心であれば、自分からの争いは起こらない。誰かとの差異が気になる、ということは自分が徹底していることに対してその人が徹底していない部分が気になってしまっている、という事である。自分がヴィーガン、相手がベジタリアンパターンだ。自分が相手に無関心であれば、差異は気にならないし問題は起こらない。

では、自分がベジタリアンであり、知らないうちに自分のツイートがヴィーガンの怒りを買い、急にぶん殴られた場合どうするか、という問題がある。

これはもう相手が差異が気にならない状態、ブロックして認識できない状態にするのが最適解だ。誰かに殴られたら即ブロしよう。

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