"速報"を捨てよう

現実の動きは速い。昨日いち早く入手した情報が、明日には、いや今日の朝には使い物にならなくなっている事すらある。

情報通信の手段が今よりも少なかった頃、四半世紀以上前の世の中であれば、早く伝わること、早く知ることは大きな価値を持っていたかもしれない。また、誤った事実であっても、大きく広がる前に、誰かが途中で止めて、吟味をする時間があったはずだ。

でも現在なら、地球の裏側で起きている事実を知るのにほんの数時間も掛からない。流れてきた情報は、その正確さも、信頼性も、確認が曖昧なまま、拡散していく。

あるいは、決定権を持っていない人の意見や、実態に基づかない願望が、あたかも確定した事実であるかのように一人歩きし、大きなうねりとなって誰にも止められなくなるようなこともあるかもしれない。

その飛び付いた「速報」に、果たしてどの程度の信頼性があるのか。その情報をいち早く知ることが、本当に利益たり得るのか。

先行きの見えない事態に遭って、とにかく明かりが欲しくなるのは当然のこと。しかし、今見えている明かりのその先に広がっている道がよくわからないというのは危うい。不安を払拭するために目指した明かりの先が断崖絶壁だったとき、更なる不安からパニックにならないと誰が言えるだろう。

「早く知る」だけではダメなのだ。「『信頼出来る情報を』早く知る」ことが出来なければ、めまぐるしく変わり続ける事態に右往左往するばかりで、道に迷ってしまう。

苛烈な状況にあるからこそ、「まずは君が落ち着け」の台詞を思い出し、水を受け取ろう。

"速報"を捨てて、足取りを確かに。

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