02 セットデザイナーになる方法
新宿のとある高層ビルの1室で行われた朝倉先生の講演会。会場は満席だった。拍手と共に真っ赤な髪に鮮やかな紫色のジャケット、蛍光色のスパッツを履いた小柄な女性が入ってきた。70歳くらいだろうか?えらいド派手でめちゃくちゃかっこいい。
「朝倉摂です。画家であり舞台美術家です。」にこやかですごくチャーミングだが赤いメガネの奥の目は異様に鋭かった。インタビュアーの方と雑談しながら手掛けてきた作品の数々をスライドで説明してくれた。蜷川幸雄演出シェイクスピア作品、市川猿之助演出スーパー歌舞伎、唐十郎赤テント、ストレートプレイ、ミュージカル、オペラ。和物から洋物、具象から抽象舞台。
「これが一人のデザイナーの作品。。??」
度肝を抜かれた。こんな世界が、こんな仕事があるんだ。。
コマーシャルアートにシフトした大学生活後半。とはいえ周りの皆が作っているような物に興味が持てず僕だけアウトローな表現で課題をこなしていた。例えばとある音楽雑誌の表紙をデザインするという授業。僕はダンボールくらいの箱の中にミニチュアの世界を作り、ライティングをしてその中にカメラを入れて撮影、出来上がった写真を透明フィルムに転写して傷をつけたりリペイントしたりする方法を考えだしその手法に没頭していた。朝倉先生のセットはまさにそんなミニチュアワールドをでっかくしたような世界だった。
講演会会場を後にした僕はしばらく道端に座っていた。胸がモヤモヤする。でもそれは以前感じた違和感のモヤモヤではなく、何かが溶け出していくようなモヤモヤだった。
「これなのかも。進むべき道は。」
そう思ったらいても立ってもいられなくなり代々木上原に向かっていた。講義の最後にインタビュアーが先生に質問していた。
「先生はこの後どうなさるんですか?」
「家に帰って仕事するよ」
「あ、あの代々木上原の坂の上にある竹に囲まれた素敵なお家ですね」
駅に着くと電話帳を見た。(この頃まだガラケーでGoogle先生的なお方はいません) 見つけた。「朝倉」。でも、3軒もある。まあいいや。3軒とも行ってみよう。
引きちぎった電話帳のページを片手に歩きに歩いて3軒目。あった。坂の上の竹に囲まれた素敵なお家。完全にストーカー。さすがにいきなりインターホンは押せないから電話してみる。
「もしもし朝倉です。」
「朝倉先生ですか?先ほど先生の講義を受けた者です!弟子にしていただけませんか??」
「いやいや、うちは経験者しか取らないんだよ」
「一度お会いして話をさせてもらいたいのです。実は今先生の家のすぐ近くにいます!」
「いやいやいや!先生は今留守です」
思いっきり先生の声で居留守使われてその日は終了。 結局次の日電話してこいと言ってもらい無事話しを聞いてもらった。今まで舞台を見たことは?と聞かれたのでアメリカに移ったばかりの高校生の時にブロードウェイで「オペラ座の怪人」と「ミス・サイゴン」を、オフブロードウェイで「ファンタスティック」を見ました!それした見たことありません!と。 全然余談なのだが、3本しか見たことのないこれらの作品。僕がバイトしていたNYのレストランの常連で仲が良かったおじさんがいて、話をしているうちに彼は「ファンタスティック」の演出家ということが判明した。「オペラ座の怪人」と「ミス・サイゴン」を制作しているロンドンのキャメロンマッキントッシュカンパニーとは今も一緒に仕事をしている。人生はやはり不思議な糸で繋がっているものだなあと感じることがある。
話を戻して。 朝倉先生曰く「まずはもっと芝居を見ろ」と。ごもっとも。今夜日生劇場へ行って芝居を見てこい、連絡しておくから。と言われ劇場へ向かった。日生劇場で上演されていたのは蜷川幸雄演出の「新・近松心中物語」だった。初めて入った日生劇場の雰囲気に気持ちが昂った。この階段の手すり。。いい。
客席に座って舞台を見る。薄いモヤの向こうに日本家屋がうっすら見える。開演と同時に森山良子の声で歌「それは恋」が流れてきてゆっくり劇場の照明が落ちてゆく。ほんとに一瞬の暗転からふわっと舞台にあかりが入るとそこには何十人もの男女がまぐわっていた。至る所で怪しく揺れる極彩色の着物。男と女。屋根の上に咲き乱れる無数の彼岸花。びっくりした。前から3番目の席に座っていたのに足音ひとつ聞こえなかった。ともすると客席後方から高下駄を履いた2mはありそうな花魁がゆっくり歩いてくる。花魁は男性だった。強烈な照明ビームが花魁御一行を照らす。なんだこの世界は。。 完全に持っていかれた。
家へ帰り妻に「話がある」と。
K「舞台美術家を目指したい」
妻「やったことあるの?」
K「全くない」
妻「どれくらいでなれるの?」
K「全くわからん」
妻「ふーん。ま、やってみれば。」
石原 敬 30歳 春。 2児の父親 無職。
(つづく)