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01 セットデザイナーになる方法

僕は今空間をデザインする仕事をしている。空間デザインといってもいろいろな種類があるが、僕が主にデザインしている空間は演劇やダンスパフォーマンス、音楽ライブやインスタレーションなどだ。業界では「セットデザイナー」や「舞台美術家」と呼ばれる。このセットデザイナーという仕事について思いつく事を書いてみようと思う。
なぜそう思ったか? 僕は最近、弊社のインターンシップに募集してくる学生や大学の講義などで会う学生達、セットデザイナーを目指したいと思っている人たちと話す機会があるたびに彼らの持っている情報の曖昧さと古さに驚く事が度々あった。もう少しセットデザイナーの「今」を教えてあげる方が良いのでは?と。セットデザイナーはどんなことをするのか?なる為には何が必要なのか?どうやって仕事を取っていくのか?どうやって生計を立てていくのか? そんな事を僕自身の体験談も含めて思いつくまま書いていこうと思う。この仕事の魅力や欠点など包み隠さず話してみようと思っている。僕は特に文才があるわけでも伝えることが得意なわけでもないので脈略のない事をダラダラ書いてしまうかもしれない。まあその辺はテキトーに流して下さいまし。

僕は2019年よりBLANk Research and Development INC.(BLANk R&D)を立ち上げた。セットデザイン(舞台美術)業務専門の会社だ。現在の舞台デザイン業界で会社形式にするという事はかなり珍しい方であろう。なぜならほとんどのデザイナーが個人形態で仕事をしているからだ。もちろん僕もそうやって個人形態からセットデザイナーになっていった。 ここで僕自身の話をちょっとだけ。
僕は16歳の時にアメリカへ移住し現地の高校と美術大学(New York School of Visual Arts)でアートを学んだ。大学にはFine Artという学科で入学した。いわゆる”作家”(アーティスト)を目指す学科だ。そこでの最初の2年間は絵画や彫刻・写真や版画などの創作に没頭した。小さい時から大きなものを作るのが好きで、でっかいキャンバスに体全体を使って絵を描いているときは最高に幸せだった。
大学3年生の時に学科の選択で大きく2択を迫られた。一つは「やるならアートで食べていくよね?学科」。もう一つは「アートはお金じゃないよね?創作第一だよね?」学科。実は僕は一卵性の双子でもう一人も同じ学校に通っていた。相方は根っからのコマーシャルアート人間、つまり「アートで食べていく」人間。僕は真逆の「ビンボーでも創作」人間だった。それなのに大学3年の僕は卒業してもNYで仕事をして暮らしていきたい思いから「アートで食べていくよね?」学科を選択した。その選択が数年後僕を苦しめることになるとは知らずに。。
大学卒業後僕はコマーシャルアーティストとして活動をスタートした。当時のNYはMTVやVOGUEなどコマーシャルアート業界がイケイケで世界のトップを走っていた。仕事を取るのが超難関なNYで運よくコマーシャルアーティストとして生計を立てていた。十分な収入はあったが、心のどこかでモヤモヤが渦巻いていた。 「これが一生をかけてやりたい仕事なのだろうか?」
2001年。日本に一時帰国していた時に同時多発テロが起きた。当時はマンハッタンの南、ワールドトレードセンターのすぐ近くに住んでいた。毎日見ていたあの景色がテレビの画面の中で崩れ落ちた。
小さい頃から絵を描いたりものを作ったりするのが得意で、ずーっとデザインと共に育ってきた。自分自身の中でもその事についてはある程度の自信があったし、将来もアートやデザインの仕事をしていくのだと当然のように思っていた。というか自分はそれ以外の取り柄は全くない。そんな僕が初めて自分のデザイン人生で迷いが生じた。「自分は何が一番作りたいのだろう?」。 当時25歳。そこから5年くらい真っ暗なトンネルに突入した。本当にやりたい仕事は何なのか?それはもちろんアートに関係する仕事であるのはわかっていたが、自分の得意とするもの、作りたい世界、ひいては自分自身の事が全くわからなくなってしまった。
そんなとある夏の日。母親から「朝倉摂(あさくらせつ)という舞台をデザインする人の講義があるよ」と知らされた。うちの母の姉、僕の従兄弟のおばさんが昔桑沢デザインで朝倉先生の授業を受けていた事があったらしく教えてくれたようだ。
「舞台美術」と聞いてふと小学校の演劇祭を思い出した。5年6年と演劇クラブに所属していて、自分たちで台本を書き役者を決め体育館で発表した。僕はその時舞台セット担当で、1/1の巨大な海賊船を段ボールで作り体育館いっぱいに出現させたり、高さ10メートルくらいの仁王像を描いたりしていた。あの時の興奮たるや。。。そしてその夜母親に「妹尾河童(せのおかっぱ)という舞台セットを作る人がいるんだよ。そんなお仕事もいいね」と言われたことも思い出した。
早速講義の申し込みをし、新宿に向かった。そこで初めて朝倉先生にお会いし「舞台美術」という仕事を知ることとなった。そしてこの日が僕が初めてセットデザイナーの道を歩み始めた最初の日となったのである。

                                (つづく)


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