頭の中のモヤモヤを書き出す
ここで、書いていることは、
●先のことは分からない(決まってはいるみたいだが)
●だから悩んでも仕方がない
●起きていることはただの現象
●現象に意味付けしない
●たいていのことはなんとかなってる
●心は自由
だいたいこんなこと。
ただ、つらつらと頭の中のことを書き出している。
南の国
このnoteのタイトル写真は高千穂牧場。
昨年の5月の終わり、つまりほぼ1年前に行った場所。
2020年の5月、私は本州の真ん中エリアにいた。
母の具合が良くないから関東に戻りたいと願っていた。
それが南の国で働くことになった。
高千穂牧場に行った日は、霧島にも行って、よく晴れた最高のドライブ日和。
そして中学時代の恩師にもちょっとだけお会いすることができたのだった。
高千穂牧場は、中学時代にそこに行った友達からキーホルダーをもらった記憶がある。
場所を聞いても遠いし、おそらく行くことはないだろうなぁなんて子供ながらに思ったのに、何十年後かに行くことになった。
中学時代の恩師とも、ずっと年賀状のやりとりをしていたけれど、遠いしお会いすることもないと思っていたが、再会した。
先生は関東の教え子に会ったのは私だけだとおっしゃっていた。
自分が桜島の見える場所で仕事をするなんて思ってもみなかったから、人生は分からない。
しかも意外なことに、暑いのが苦手であまり南国に興味ない私なのに、この鹿児島は大好きな場所になった。
人生、本当に分からない。
南の国へ行くことを告げられたた時は、正直ショックだった。
その土地がどうこうよりも、実家からさらに遠くなり、母の世話に帰るのが遠くなるから。
でも決まったことは仕方ないし、仕事を辞める選択をしなかった(できなかった)から『何とかなる』と気持ちを切り替えた。
そして1年後の今、地元にいる。
この時はそんなことになるとも夢にも思っていなかった。
北の大地
同じようにだいぶ前に北の大地で働いていたことがあった。
この時も、まさか自分が北海道に住むことになるなんて思いもしなかった。
もともとヨーロッパが好きで、北方志向の私。
最初はあまりに長くモノトーン色の冬の長さや、本州との風景の違いにホームシックになりかけたが、結局は北の大地が大好きになった。
北海道に住むことになるとは、社会人になった時には全く想像すらしていなかった。
地元が大好きだったし、そもそも仕事で居住地を変えることになるなんてことも全く考えていなかったのだから。
やっぱり人生は分からない。
特に私が、流れに乗って生きてきたからかもしれない。
その時その時示された道の中で、選択をしてきたけれど、その選択もどうやら決まっているらしい。
7年越しの梅酒
先日、ようやく2015年に母と漬けた梅酒をデキャンタに移した。
全部は無理で半分ほど。
7年の歳月が梅酒に良い味わいをもたらして、おいしくなっていた。
まだ半分と別にもう一つ瓶があったから、当分楽しめる。
今年新たに漬けようか迷い中。
これを漬けた瓶には、母の几帳面な字で、漬けた日にちと飲み頃が書かれていた。
まさか7年後に母が今みたいな状態になって、介護をしているなんて想像もしていなかった。これも想定外。
病気らしい病気をしたことがなく、入院は父の方がしていたから家族には晴天の霹靂。
誰一人母がこんなことに(要介護4)なるとは想像していなかった。
先のことは本当に分からない
明確な目的が見出せていない私など(noteを書いている人には少ないかもしれないが)には、特に先のことは分からない。
人生のゴールが描けていたら、少なくともその方向に向かって船を漕いでいるわけだが、それだって確実にゴールに到着するかは、分からないのだ。
遭難して自分が描いていたのとは全く違う島に漂着してしまうことだってある。
先のことは分からない。
分からないことに不安や悩みを覚えても仕方がない。
だから、『悩まなくてもいい』と言い聞かせている
小林正観さんの宇宙論だと、人生は決まっているらしい。
ご本人自体、唯物論者だからこの『人生のシナリオが決まっている』ことはなかなか受け入れ難かったとおっしゃっているが、とにかく『人生のシナリオは決まっている』から、淡々と生きる。
しかしながら、人生が決まっているから、何をやっても無駄とかそういう話でもない。
決まっている先のことを悩むより、今に心を置いて過ごすことが大事なのだ。
『今』に『心』で『念』。
『念を入れて生きなさい』と説いている。
今、この瞬間に集中して無用なことに心を煩わさない。
『今』の積み重ねが繋がるのだから、起きてもいないことで『不安』を生み出すと自分の人生が『不安』の連続で構成されてしまう。
『今』ここに生きていて、自分を取り巻く人やモノに感謝して『幸せ』を感じたら、人生は『幸せ』の連続で構成される。
と思うのだが、、、
『幸』も『不幸』もないらしい
小林正観さんは、さらに
宇宙には現象があるだけで、そのことに『幸』も『不幸』もないとおっしゃる。
確かに雨が降って、
『やだなぁ。』と思うか『恵みの雨』と思うかの違いで雨が降るいう現象には何の変わりもない。
現象に思いを付けて、一喜一憂しているのは人の心。
ここは私はまだまだ修行が足りず、一喜一憂してしまうので、『淡々と』受け止める修行中。
心を自由に
今辛かったとしても、心だけは自由。
悩んでいても、その状態を脱却できない場合、鬱にならず、心を平穏に保つためには、心をその悩みごとから放してあげること。
(鬱が悪いとも思わないけど、鬱で働けないことで困る人もいるだろう。
鬱でも暮らしていけるならそれでいいだろうし。)
今辛い自分に追い打ちをかけるように、
悩んで負担を増やさなくていい。
悩んだところであまり意味はない。
悩んで結果がよくなるなら悩んでもいいけど。
そうならないなら、悩んだりクヨクヨすることはやめて、
●楽しいことをする
●やりたいことをやってみる
●ゆっくり休んでみる
など自分のしたいようにする。
あと、
●周りの声を聞き過ぎない
他人に迷惑をかけない範囲で、自由気ままでいい。
自分の人生なんだし。
自分の気持ちが塞ぎそうな時は、そんな風に考えている。
外野の声ばかり聞いていると、自分が分からなくなり、軸がぶれる。
とにかく何とかなる。
そう言い聞かせている。
私のモヤモヤ
人生100年時代。
もともと、『人生でこれをやりたい』という明確なものはなかったから、大学を出て、会社に入り、結婚して専業主婦になるつもりだった。
専業主婦の母が羨ましかったし。
それが、時代の変化でそのままではいけないと思わされている気がしてモヤモヤしている。
先日の産業ケアマネジャーさんからも、『これからの時代、何か一つ尖ったものを作っておくといい。(私は)頭がいいから、社労士の資格とか取ったら?』
と言われた。
頭がいいかどうかはさておき、いろんな資格を取ったが、社労士はなんだか面倒で2回くらい取ろうか悩んで勉強しなかった。
最近何となく感じるのが、左脳を使うのが疲れるのだ。
自然や芸術に触れていたい。
仮にそんな仕事があっても、今の私にはそのスキルやキャリアがない。
もちろんどんな仕事にも左脳的要素はつきものだし、養老先生もYouTubeで、『好きなことを仕事にしたって、その中で好きでもなくやりたくないこともついてくる』といった話をされていて、なるほどと思った。
とはいえ毎日パソコンや電話で、心の赴くことと違うことをしていると、自分の人生、もっと心が求める時間で埋めたいと思う。
社労士の勉強を今やりたい、やろう!という気持ちになれないのだ。
それをとって、何がしたいんだろう。
私の漠然としたこうありたいイメージと、会社の環境にきっと大きな隔たりがあるのだと思う。
こんなことでモヤモヤするとも、20年前の私は思ってもみなかった。
その時その時の選択は、自分でしてきたことだから、後悔しても仕方ない。
これから、をどうするか。
分からない長いトンネルを歩いている気もするが、トンネルを出て、外の景色を見ないと人生もったいない。
そんなことを思う日曜日。
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