分離についての考察② - 既に現れていることが結論 - 自由意思と選択は無い


分かっている者(自分)がまだいるときに
そこから抜け出すことは出来ないんだ。

そこでは分かっていることが繰り返し起こる。

善悪の極を行ったり来たりしながら、泣いたり、笑ったり。

それだけなんだ。

ものすごくシンプルなんだ。

それを、どうしてこうなるの?どうして?どうして!!
って失敗の理由を探そうとする。
成功への答えはどこに?
分かっていないと不安なんだ。
避けたいから、痛みを。
喜びだけを手にしたいから。

だけど、答えなど無い。

理由など無いんだ。

起きている事に理由など無い。

探してもまるで無駄。

でも探すしかないんだ、そこに分かっている者(自分)がいたら、探すしかない。
それが分離だ。
そこからは誰も逃れられない。
繰り返し
繰り返し
どこまで行っても探求だ。


そしてうっすらと、分離がうっすらと
全体へ戻ると、
圧が緩まって
気付きが起こる。

なんだよ!そうだよ!
誰もいないんだ。

目の前に映るのはただ分かっていること(握ったものさし - 良い悪いの基準)と
分かっている者(自分)、その姿だけだった。

他人がいて、
自分がいて、

分かっている
分かっている
分かっている

そればかり映る。

それが握られたものさしだ。

こうだと分かっている。
良くも悪くもこうだと分かっている。

こういうやつだ、お前は、と分かっている。
それを語るし、
それをなじるし、
それを責めるし、
ときにはそれを褒めてみたり、
そうやって、
常に
自分を確認している。
自分がいることを分かっている。

それが分離だ。

そうし続ける事によって自分は維持され、強化されてゆく。
逃れられないループがいつの間にか出来ていて、限られた時間の中で必死に自分は生き延びようとする。

逃れることは不可能だ!
だってもうすでに自分がいるって感じているだろう?自分がいないなんて想像できないだろう?
それが結論なんだよ。
分離が、そのようにすでに現れているのだ。

そこからどこか今より良い地点を目指す、つまり希望を持つ、そうやって日々努力する自分が出来事の体験者であり、物語の主人公というのは脳が作り上げた構築物だ。まるで自由意思と選択によってそれらが可能であるかの様に信じてみたりする。自分はこういうストーリーが大好物で、常に持ち歩く。
分離はこのような姿で現れてくるのだ。


分離そのものであるとき、
まだ何も分かれていなかったときの感覚は忘却の彼方へ消し去られる。
分離以外のことがわからない。
つまり、自分こそが分離だ、とは気付けない。

なぜこうなってしまうのか、
なぜこうできないのか、

裁いて
裁かれて

痛い思いと
傷つける苦しさとが
まさに自分が握ったそのものさしの現れ。

自分が消えた。
そのものさしが消えた。
探求が終わった。

そのとき初めて
分かっていることがただ坦々と現れていた
だけだったと気付く。
そこには誰もおらず、
分離が起きていただけ。
けど、それすら
全体に含まれて、
溶けてしまう。

最後に残る一言は、
"すべてがそのように現れている"に尽きる。

いいもわるいもなく
すべてがただそのように現れているだけ。

そして、全ては無。
何も起きてはいないんだ。

驚きなんだよ、
そう、驚き。

自分って、いないんだ。

まるでその幻が実在するかのように現れることすらできる。

そういう完全が、これだよ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?