分離についての考察① - 自分がいるという感覚と欠落感 - それが現実だという重い圧

分離 : 全体から分かれていることのあらゆる表現。完全から敢えて分かれて不完全を現す。それを現すことすら出来るという無限の可能性とまさに全てが完璧であることの証し。


いつからか、"自分"が始まった。
そこには誕生からの物語があって、
過去と現在と未来があって、
他者がいて、
世界があって、
膨大な情報の中から、正しさや、自分らしさや、優位性のあるものを掻き集めて、
もっと良い生活
もっと素敵な人生
もっと輝かしい未来...

もっと他者に優しく!
もっと住み良い世界に!

もっと、もっと、
満ち足りた私になりたい

幸せになりたい

もっと、もっと。

まるで、ここでは無いどこか(いつか)へ照準を合わせ、いつまでも核心に向き合うことを避け続けているかのようだ。

まさに、今それらが無い!!と確信している自分がいる。

自分がいる。実在する。そう分かっていたい。


そういう向き(傾向)の表現が分離として現れている。
二元の世界。時間。物語。理想と現実。
自由意思と選択。関係性とコントロール。
敵か味方か。利用する、される。
希望。探求の衝動。
劇的な解釈。成功と失敗。
比較。特別と平凡。
突き詰めること(もっと)。
分けてゆくこと(複雑化)。


例えば
"相手の行動に被らないように、
必死でこちらの行動を制御する"

それは硬直だし、緊張だ。
やっているつもりだ、
当然自分がね。
関係性の中ではそれが最善だと信じている。

その根底にあるのは、
いつの間にか自分の引出しに溢れるほど溜まっていた暗黙の了解の数々。道徳や規律や社会通念と呼ばれるルールだ。親のやり方なんていうのも厄介な規範だ。

その雁字搦め(がんじがらめ)が現実だ、と信じているのが自分。
どちらかと言うとその方がいいと思ってる。その中でうまくやれば先が見通せる。つまり失敗を避けられる。そんなふうに表面的には解釈できる。

でも、その真の部分というのは、ただ自分を維持できるから。自分がわかっていることを繰り返したい。
こういうのが自分らしい。
こういうのは自分らしくない。
それらによって、いつも自分は実在していると確認していたい。そういう衝動に支配されている。


まさにそれが分離の真骨頂。分離とはそういうもの。わかっていることだけで埋め尽くしたい。
わからないことが怖いから。
でもそのわからない領域に
無意識に惹かれてしまうのもまた分離。
なぜなら、自分がいるという感覚に伴う欠落感を、何かで満たしたいんだ。
自分には何かが足りていない。決定的に何かが欠けている。けれどもそれが何なのかわからない。
だから探すんだ
わからないことの中にその答えを。
それが、知りたいという衝動(探求)の正体だ。


このような特徴を持つ分離が人間の肉体を通して表現されるとき、ある種の緊張感を伴う。萎縮する。見掛け上においては、それが声量、態度や行動にも反映されてくる。
さらには、生きづらさという精神的苦痛もまた分離の表現と言える。


そういう"居心地の悪さ"が、

まさか自分がいるからなんだ、とは

目から鱗である。


よって、自分が本心から切望している
不自由さ(恐れ、窮屈さ、居心地の悪さ、欠落感)からの解放とは、

自分がいないこと。

自分の死。


それこそが分離の終わり。

探求の終わり。


けれど、それをもたらすことができる何か、
絶対的な力(ちから)
例えば"神"のような、
そういうものは無いのだよ。

ただ自由に
常に新しく
現れている。
そしていつの間にか、
もう現れていないんだ。


そして、はっきりする。


自分ってはじめからいなかった

始まりも終わりもなかった

と。



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