町が変わっていく先に待つものとは
ぼくは2008年に移住のために古民家を購入し、以後約一年という時間をかけてリノベーションをした後、2009年の夏から、正式に京都府南丹市美山町に移住した。
当初は、田舎暮らしという言葉から想起する、ゆったりとした時間の流れや、自然豊かな風景を満喫しながら余生を過ごす、なんていう生き方を想像してたのだが、現実はそう簡単には進むことはなかったように思う。
確かに都会から移り住んだことで、大きく変わったことは多々あった。
例えば、家庭菜園なるものをつくり、自分で食べ物を作ることになったこと(これは後に無農薬有機栽培のお米を広範囲に作る活動へと発展する)、日々移ろいゆく季節を肌で感じるようになったこと、
なにより、地域とのつながりが濃密になったことだ。
この地域のつながりというものが、町が維持されていくためにとても大切な役割だということはもはや周知の事実だが、その実感というものをリアルに感じて理解している人は、実はそんなにいないのではないだろうか。
実はぼく自身、町が大きく変容し、ぼくの中ではある意味衰退していく姿を肌で感じたことがある。
もしかしたらそれは衰退と表現するには、大げさかもしれない。しかし、ぼくがそれに気づいた時、批判を恐れずに書くと確かに町は以前より変容し、価値が低下していたし、ぼく自身がその町に住み続けるイメージを持つことも、町の未来を感じる要素を見つけることも難しくなっていたからだ。
ぼくは美山町に来る前、最後に大阪市内に住むまでは、数年に1回の引っ越しを繰り返していたので、そもそも根無し草のような生活だった。また、マンション暮らしも長く、隣に住んでいる人が誰なのかもよく分からなかったりと、「住む」「暮らす」ということが、非常に個人的なレベルで完結しており、地域という社会、つまり人として暮らすためのコミュニティが非常に希薄な暮らし方をしていたので、そもそも町というものに思い入れはそれほど無かったように思う。
そんなぼくがコミュニティを意識したのは、大阪市内に住んだときだった。
ひょんなことから移り住んだ大阪の下町。そこに15年間住み、それなりの愛着が芽生えた町ではあったが、移住の手前ではその愛着からくる感傷すら、もはや無くなりかけている自分の感覚に少なからず驚いていたのを覚えている。
1994年、神戸から移り住んだその町は、大阪市の端に存在する住宅が多い、いわゆる下町で、高層の建物などなく、古くからある商店街には、近所のひとたち行きつけの居酒屋や寿司屋、道の角には、立ち飲みが出来る酒屋などが存在し、夕方になると赤ら顔のおっさんたちが、阪神タイガースの勝敗に一喜一憂する様子がなんとも微笑ましい、古くからある下町風情たっぷりの地域だった。
その下町のほぼ中心に知人の家があり、そこを管理目的半分で借家することになった。当初は3年だった予定が、気がついたら結局15年近くをその家で過ごした。
そしてその15年の間に、この町の様子が大きく変容していく姿を目の当たりにする。実は、この時の経験と感覚が、この後移り住んだ美山町でのぼくの活動に大きな影響を与えている。
その家のすぐ目の前には、さほど大きくない中くらいの公園があった。
歴史を感じる大きな木々が周囲を囲み、夏場の強い日差しを防いでいた。
当時(今から25年以上前)、公園には、年寄りが多く日向ぼっこをする姿や、赤ん坊や小さな子をつれて遊びにきている母親たちの姿を多く見ることができた。
小学生くらいの子どもたちは、学校が終わると三々五々、この公園にあつまり、自転車に乗ったりボール遊びをしたり楽しんでいた。
その町に住んでいた15年間、その公園は、我が家の生活の一部であったといっても過言では無い場所だった。
息子は、生まれて間もない頃から、そこで過ごすことが当たり前であったし、彼はここで多くの友達と過ごし、多くの遊びを覚え、そしてここで自転車の補助輪も外した。
我が家は、その公園を生活の場のひとつとしてとらえていたので、公園の移り変わりから、町の衰退とも言うべき状況を直接感じることになった。
地域には自治会や子ども会などの組織がしっかりと存在し、何かにつけ、住民が集まる場が多く存在した。
地区対抗の運動会がある前には、この公園で夜な夜な地域の家族が多く集まり、大縄飛びやリレーの練習に花が咲いた。
それから数年が経過した頃、公園から年寄りの姿がひとりふたりと消えていく。
近くに住んでいた老人たちが次々に亡くなり、誰も住まなくなった周囲の住宅がどんどん取り壊され更地になっていく。
その場所は駐車場となったり、いくつかの空き地が合わさり、ハイツや中規模のマンションが建設されていった。
同時に、町に多くの家族が移住してきた。
あるとき、古くからあった公園の遊具がなくなっていく。
市民からの苦情もあり、老朽化で危険ということで行政が動いたそうだ。
そうして、どんどんと公園内で独特の雰囲気をもっていた、いろんな面白い遊具が消えていった。
そのころから公園内は自転車で走ることや、ボールで遊ぶことが禁止されていた。
この公園はかなりの歴史があったはずだった。
公園の中には大きな広葉樹や、低木が公園を大きく包み込んでいたため、子どもたちの昆虫採集の格好の場所になっていたのだが、あるとき突然、公園の木がほぼ伐採された。
理由は青少年の非行防止や安全のため、もしくは秋になると大量に発生する落ち葉の回収や、防虫作業、剪定作業など、公園管理の維持費節減だったとも聞いた。
そしてその公園は、がらんとしたなんの風情もないものになった。
そのころからだっと思う、古くからの住民から、マンションやハイツに新規で入居してきた人たちが自治会に入ってくれないと言う声を聞くようになった。
夜中の公園で大声で騒ぐ若者たちが増えた。
一度、その若者たちに注意をしに行ったのだが、その様子を見ていた地域の方から翌日、「個人で注意せず、そういうときは警察を呼ぶように」と意見されたこともあった。
時折早朝に、若者たちが爆音とともにバイクで住宅街を走り回ることがあった。
当時、玄関先に素敵な花を植えた鉢植えを置く家も多かった。そんな鉢植えが盗まれる事例が散見されるようになった。実はうちもその被害世帯のひとつで、大切に育てた鉢植えをいくつか盗まれた。
もともとコンクリートやアスファルトで覆われた場所が多いことで、土がある場所がこの公園だけだったことや、住民の数が増えたのが原因なのか、うちの前の公園がすごい数の犬の散歩のコースになってしまった。
夕方になると、多くの犬の散歩をする人で、公園内が混雑した。
当時、大型犬が流行していて、かなりの数の大型犬がこの公園を散歩中のトイレとしていたため、大量の糞尿が公園内に集中した。
飼い主たちはマナーを守り糞は持ち帰るが、放尿された尿はそのままである。大型犬は一度に大量の尿をする上、みな同じところにするため、夏場になり気温が上がると猛烈な悪臭を放つようになった。
そのころから商店街の古くからある多くの店が閉店していくようになり、シャッターが目立つようになった。
あるときから、いつのまにか決まった曜日の朝になると、公園には浮浪者がたむろするようになった。
廃品回収でだされたアルミ缶をそこいら中で集めてきては袋に入れ自転車にくくりつけてやってくる。さらには、もっと大量に運ぶことができるように、空き缶をガシャガシャと踏んでつぶし詰め込んでいく。
そんな作業を早朝から、うちの前の公園で、途切れない音をたててやっているのだ。
そしてそんな人たちが各地から集まってくるのだ。
原因は、公園の近くにある人通りの少ない橋のたもとに、その空き缶を買い取る業者がやってくるからだった。
いつのまにか公園からは、子どもたちの姿が消えていた。
町の姿や様子は移ろいゆく。
人の暮らしにおいて、価値観の多様性や個人主義により、ライフスタイルの変遷がもたらされていくことには異議はない。
だが、この経験を経て感じたことは、本来、町というものはコミュニティで成り立っている事を忘れてはならないということだった。
その時々が良かったらそれでいいなどという訳はなく、町の営みは常に次の世代へとシームレスにつながって、永くつながっていくことを住民全体で理解しておかなくてはならない。
あるときひとつの世代が、寿命とともにいなくなり、その後を継ぐものがいないとしたら。残った土地の使い方を、土地に住まない人が決めてしまうこと、それが切っ掛けで町が大きく変わってしまうとしたら、それはもはや別の町になってしまうということであり、本来の町の姿ではないと思う。
その町は、15年という時間をかけて大きく変わってしまったと当時のぼくは感じていた。
しかし、その町にはまだ多くの人が住み、それぞれの営みが行われている。
町としての価値が変わってしまった時、そこの住民はどう感じるのか。
その感覚が、その後の町づくり、コミュニティの形成にどう影響を与えるのか。
この経験は、美山町に移住して、様々な活動をするぼくの基本的な感覚の形成に活かされている。
全国各地で取り組まれている地域振興で、まず最初に考えなければいけないことは、それぞれ町にどういう価値を感じ、それを50年先まで継続するにはどうしたらよいかということだ。
例えば家や土地が、その家の財産として代々つながっていくことも大切なことなのだが、それだけでは今の時代、町の価値は守れないのではないかと考える。家督相続という感覚ではなく、「価値感の共有による相続」を目指す考え方にシフトしていかなくてはならないのではないか。
そしてそのあたらしい継承のやり方を、住民全体が「ムード」として、感じておくことが大切だと考える。
そのムードこそが、もしかしたら「文化」というものではないだろうかと思う。多種多様な価値観がこれほどまで浸透した今だからこそ、土地の持つ雰囲気や感覚を大切にした「文化」という物差しを個人が持つことが望まれる世の中になっていくのではないか、と感じる。