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行政に把握されない活動たち〜市民協働の本質

2019年末、京都府にある福知山公立大で特別講義をもった。
ソーシャルデザインという授業の中で90名ほどの学生たちに、ぼくが行ってきた活動を、自転車を軸に1時間程度で紹介するという内容だ。実はこれが二回目である。

テーマは「自転車教室からはじまる社会変革」

この講義の機会をくれたのは、地域資源論、ソーシャルデザインを教える、谷口知弘教授
実はこの谷口教授とは、ぼくが大学受験のために通っていた画塾で知り合った同期という間柄だった。しかも高校三年のうちの、それも受験手前、わずか三ヶ月しかなかった付き合だったのだが、お互いのことは、それぞれ鮮烈な記憶として残っていた。受験当時、お互い違う志望校目指して、必死に受験に立ち向かっていた青春時代だった。

その後、彼は持ち前の頭の良さで志望校に一発合格し(うらやましい…)、ぼくは甘い考えと実力不足により、結果受験に失敗。
その後1浪して、ようやく志望校である京都市立芸術大学美術学部に進学する。
そしてその後、ぼくらは出会うこともなかった。

それから四半世紀以上が経ち、なんと、ぼくたちはFacebookでまた繋がることになる。
素晴らしきからSNS。50歳を超えてから、青春時代をともに過ごした仲間たちと、まさかこんな形で再会できるなんて、いやあ、未来だなあと、アナログ時代を過ごした最後の世代である、ぼくらは、つくづくそう思うのだ。

さて、そんなあるとき、ぼくが当時取り組んでいた自転車の拠点施設 CYCLE SEEDS(サイクルシーズ)の工事中に、彼が現場にふらっと訪れたのだ。

福知山の大学で教鞭をとっているので、京都市内から福知山に向かうその途中で、ふと美山に行こうと思いたち、立ち寄ったという。
それならばと、彼に無理やり壁工事を手伝わせたのを機に、ぼくらの関係は30年の時間を飛び越え、再びスタートした。

作業中、彼と昔話から今の話題に花が咲いた。
ぼくが様々な活動をしているのを彼はFacebookで読んで知っていたのだが、ぼくが公的な支援をいきなり頼るのが嫌いで、自分たちだけでなんとかしようと常にもがいていることは、その現場での会話の中で詳しく知ったらしい。
そんな彼が、ある日、京都府が行っている「京の公共人材大賞」への参加を提案してくれた。

この、“京の公共人材”とは、京都府内において、産学公NPOそれぞれのセクターの壁などあらゆるハードルを乗り越え、自ら課題解決のために、活躍する人材を顕彰するものだそうで、それまで4回開催されており、その5回目に応募してはどうかと、彼が勧めたのだ。

じつはぼく自身、そう言う賞典などにはあまり興味がないため、最初は乗り気ではなかったのだが、彼はこう言う。

「京都府などの行政は、これまで多くの市民レベルの地域振興の活動を把握し応援している。だがそれら把握している先は、登録された団体であったり、補助金を申請したことによって担当部局が把握したところがほとんどだ。
つまり、なんでも自助努力でやってみようという補助金を申請しない君のような活動は、実はまったく把握できていないと思う。
だから彼らに君の活動を教えるためにも、一度、公の場所に出てみてはどうか」

なるほどそれも一理ある。
確かにぼくの活動は、ついつい独立独歩になってしまい、行政や他の団体との横のつながりが無いことに関しては、少し問題があるかも知れないと感じていたところもあった。

彼はさらにこう言う、
「君の活動の内容も質も申し分ないと思う。
一次の書類選考ではなんの問題も無く通るだろう。
そしてその後、最終審査は7分間のプレゼンテーションだ。
人前でしゃべるのが得意な君なら、お手のもんだろう。
是非、行政職員に君の活動を、どんと知らしめてやってくれ」

そうなると少し興味がでてきたので、それじゃあやってみるかと、美山で行っている自転車の聖地プロジェクトの取り組みで参加したら、なんと、あれよあれよと大賞を頂いてしまった。

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大賞受賞の理由は、まず、
我々の活動が、公的資金も受けず、自助努力で行っていること。
次に、
ついつい欲張って、拡大しがちなイベントを身の丈に合ったサイズを、品質保持のためにキープしていること。
活動が自転車に限らず、そこから派生して農地保全や教育にまで広がる、その展開性に優れ、それぞれの内容に拡張性が強く感じられるところ。
だそうだ。
われわれの活動を、表に見えている事象だけでなく、その下に地下水脈のように広がるようなコンセプトの本質を、うまく理解していただいたことは、非常にうれしいことであった。

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さて、こうして大きな受賞が決まって改めて感じたのは、
「なぜ僕らのような自助努力で頑張っている市民の活動を、行政が把握していなかったのだろうか」、ということだ。

先の谷口教授の話にもあったが、行政に登録したり事業支援をもらうと、その内容が行政内で記録に残り、共有されていく。
そして再び同じような案件があると、まず行政から同じ団体に声がかかる場合が多い。
一旦、事業をしっかりと行った実績のあるところは、公金を出す側からしたら安心な存在だからであろう。
つまり、うがった見方をすれば、新規に助成申請するところより、継続して申請してくる団体の方が、助成などの支援を受けやすいということにもつながるのではないか。
加えて、その団体にとっても数をこなすと当然、申請手法にも長けてくるし、活動の継続支援を受けるツボも心得てくるだろう。さらに助成を受ける確率もあがるかもしれない。(実際、以前によく補助金を取ることが知られていたとある団体が、補助金獲得セミナーなども開いていたのを見て、なんとなくその本質からずれた活動に疑問を持ったことがある)

例えば、ぼくらのように、行政と関わることを意図せずやれていないところは、だんだんと行政から見つけられにくい存在になっていくんじゃないだろうか。
つまり、活動が運良く何かメディアに取り上げられるとか、なにかよほどのニュースバリューがある存在にならない限り、彼ら(行政)がこうした活動を発見するチャンスは、ほぼ無いに等しいのだと思う。

しかし、こうした自分たちでなんとか頑張っている団体が、下手すると行政から見つけてもらえないかもしれないというのは、果たしてどうだろうかと思う。

例えば、端から自助努力でできる団体と行政が組めば、費用対効果抜群の活動ができると思うのは、ぼくだけだろうか。

市民協働というものの本質を考えた時、市民と行政のそれぞれの特性を活かしたコラボレーションが必要なわけで、まさに自助努力で成果を上げる経験をもつ団体とその活動に行政が寄り添うことで、大きな成果が生まれると思う。

補助金での支援も良い。だが、次の段階は、本当の意味での市民協働をおこなうため、その目的にふさわしい活動と、行政の然るべき専門部署とを連動させることにあると思う。

ぼくは市民の立場から言わせてもらうが、行政内の然るべき部署は、もう少し、市民の活動をしっかり把握すべきだと思う。
町には多くの魅力ある活動がたくさん行われている。
そうした町の未来につながる、夢のある卵を見つけ出すのも、行政職員の仕事ではないか。

そして改めて行政職員に強く言いたい。
もっと自らの目と耳と足を使って、自力で頑張っている市民の魅力ある活動を探し出し、市政に役立ててほしい。


(余談)
実は、ぼくの住む南丹市にはこれまで、何年も前から、美山でのサイクリングイベントや様々な実績を持って、担当部署や市長に対し、様々な提案や要請を直接しているが、残念ながら未だ動いてくれる気配がない。
それどころか、(以下自粛)…
なにはともあれ、京都府が認めた大賞程度では、まだまだ不十分なのだろう。

地域の疲弊待ったなしの今の時勢で、行政がこれでは非常に残念だが、一市民は、今後も地道に一歩ずつ進んでいくしかないということだろう。

(2017年2月26日京都新聞朝刊)

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子ども向け自転車教室 ウィーラースクールジャパン代表 悩めるイカした50代のおっさんです。