『自在なアタックで、チームに勢いをつけたい』 SH 南 昂伸
ラグビーは、始めた時から楽しかったと言う。体の小ささを強みに変えて、自らが起点となる自在なアタックに楽しさを見出して来た。いくつかの壁を乗り越えて今、プロラグビー選手として更に高みを目指し、「勝って仲間やファンと共に笑い合いたい」と語る。南 昂伸選手のこれまでの道のりを辿ってみよう。
中学に入るまでは、ラグビーは全く分からないスポーツだった
小学生の時は野球をやっていたが、中学に上がるタイミングで違うスポーツをやってみたいと思っていた。入った中学にはラグビー部があった。同じ小学校だった先輩が先にラグビー部に入っていたり、仲のいい同級生の子もラグビーをやってみたいと言うので体験入部してみたら、初めてやる全くわからない競技だったが楽しかった。
「中学校時代は、僕が2年生の時の春の新人戦では優勝してますし、愛知県内だったらラグビーで結構有名な中学校だったかもかもしれません。部員数は、僕が3年生の時は全学年合わせて60人ぐらいいたと思います。上の学年になってからは、4月になると新入生をラグビー部に勧誘するために登校時間に朝早く行って、『僕ぐらいのちっちゃい体だって活躍できるよ!』みたいな感じで声をかけていました。
初めて経験するラグビーというコンタクトスポーツに、小さな体で恐怖感は無かったのだろうか。
「やっぱり最初怖さはありましたけど、始めた頃からアタックするのが好きだったので、トライをしたり、自分がボールを持って抜けたりする楽しさを覚えてしまって、怖さっていうより楽しさの方が強かったです。
僕は、足自体はそんなに早くないんですよ。50メートル走とか全然速いわけじゃないですし。ただ、20メートルから30メートルくらいの短い距離でのスピードはあったのかなって思います。一瞬ですっと抜き去る感じの、すばしっこさがあったんだと思います」
母には、好きなことをやっていいと言われていた。だからつまんなくなったらやめればいいと思ってやっていたが、面白かったのでやり続けた。
「最後は結構悔しい思いで負けてしまったんですけど、試合にも勝てるようになって、チームもいい感じになってきたので、中学校3年間通してすごく楽しかったなって思います」
御所実業高校入学
「中学を卒業したらラグビーを辞めようかなと思ったりもしたんですけど、ラグビー部の顧問の先生が関西出身の方で、県外のラグビーが強い高校はどうかと勧められました。僕は母子家庭で4人兄弟なので母親は色々大変だったと思うんですけど、母に相談したところ、『何も心配しなくていいから、県外の高校に行きたいなら行ってもいいよ』と言ってくれました」
ラグビー部顧問の先生から、『お前みたいな身体の小さいプレーヤーでも使ってもらえるぞ』と言われて、御所実業高校を勧められた。『御所でメンバーに入れるかどうかはわからないけど、お前にやる気があるのならチャレンジしてみてもいいんじゃないか』と先生から励まされ、一般入試を受けて御所実業高校に入学した。
「御所は、僕が入る頃も強かったですね。御所では、純平さん(湯川純平)が二つ上の先輩で、青木 拓己とメイン平が二つ下です」
その頃の部員数は総勢70〜80人ぐらいいてレベルが高く、ここでやっていけるのかなと南は不安になった。
「弱音を吐くことは無かったんですけど、親元離れましたし1年生の時は、やっぱりここに来たからには頑張らないといけないなと毎日思いながら、必死にやってました」
御所に入ってからはウイング11番になった。
「やっぱりアタックが得意だったり、すばしっこかったりしたんだと思います。中学の時は主に10番をやっていたんですけど、やっぱり高校となると10番は頭を使わないといけないし、司令塔と言われるポジションを自分がやるよりも、やっぱりボールを持って自由に走りたいなと思って、ウイングをやりました」
高校1年生の時は、花園決勝まで行って東福岡に敗戦。2年時は、奈良県大会決勝で天理に1点差で敗戦。3年時は、花園3位。その時の準決勝の相手も東福岡だった。相手には、今はチームメイトとなった古賀由教が出ていた。
ラグビー部監督・竹田先生の教え
3年生になるまでは寮が無く、自宅から通えない生徒は監督の竹田先生の家に住まわせてもらっていた。先生と一緒に練習時間を過ごし、終われば先生の家に帰って一緒にご飯を食べるという毎日だった。
「そこで1から人間性の部分を教えていただきました。竹田先生は、人間性だったりとか、謙虚さだったりとか、そういうことを大事にしていて、本当に自分は右も左も分からない状態で御所に入って、仲間の大事さだったりを教えていただいたり、人間性の部分というのをすごく成長させていただいたなって感じます」
南が3年生の時に寮ができて、寮に行く選手と残る選手に分かれたが、南は先生の家に残り、結局3年間ずっと竹田先生の家で生活をさせてもらった。
「ラグビー面では、ああしろ、こうしろっていうのは、言われなかったですね。先生が一番大事にしていたのが生活面で、人間性が一番大事だということでした。例えば、落ちているゴミを気づいているのに拾わない人間はダメだとか。気づいてない人間がいるんだったら、自分が率先して拾って、その人に気づかしてあげなさいというようなこととか。
誰かがやってくれるじゃなくて、まず自分から率先して行動して、それをできてない子に教えなさいと言われて。自分はそれができなかったので怒られたりもしたんですけど」
「今それができてるいかと言われたらわからないですけど、高校の時は本当にそういう人間性の部分がメインで、本当に小さなことから毎日教えていただいていました。
小さなことであっても、毎日やっていくといずれ大きくなるってずっと言われていました。高校の時は、『また言われた!』みたいな鬱陶しい気持ちもあったのですが、今思えばそれがあったからこそ今の自分があるのかなと思っていて、本当に、竹田先生には感謝しています」
大東文化大学入学
大東は、自由なプレースタイルで自分に合っていると、南は感じた。ポジションは、コーチの勧めで9番(SH)に変更した。
「やっぱり大学まで行くと、僕みたいな小さな体で試合に出るためには9番しかないなと自分でも思っていたので、変えました。大学から9番をメインでやり始めたので、その部分でやっぱり苦戦しました」
結果としては、1年生からレギュラーメンバーとして公式戦に出場した。1年時は、大学選手権ベスト4にも行くことができた。
「大学の時は、周りの人たちが僕をサポートしてくれて、やりやすい自由な環境でやらせてもらっていました。どうしたらいいかわからなくなる時もあったのですが、それよりも楽しさの方が勝っていました。ミスをしても怒られなかったですし。迷ったらトンガ人に放ればいいって言われていたくらいなんですよ(笑)。先輩にアマト(ファカタヴァ アマト)とタラウ(ファカタヴァ タラウ侍)もいましたので。まあ、そんな感じでやってましたね。本当に」
「9番はボールにたくさん触れる楽しさもありますし、自分がボールを持って走ってパスダミーで抜けてトライまでいけたりとか、そういう一番最初にボールに触れる人の特権じゃないですけど、自分起点でアタックができるっていうのは、やっぱりすごい楽しかったですね」
セブンズでも活躍
2年生の時には、学生オリンピックとも言われるユニバーシアード大会のためのセブンズ日本代表メンバーに選出され、半年ぐらいセブンズに専念していた。そのチームでは、共同キャプテンを務めた。
「レベルが高い選手がたくさんいるし、引っ張ってくれる選手が多かったので、全員がキャプテンみたいな感じでやっていました。ですからキャプテンの重みみたいなものは、そんなに感じなかったです。
ユニバーシアードでは、優勝しました。優勝を狙ってはいましたが、まさかできるとは思っていませんでした。しかもその時は、女子も優勝して、ユニバーシアードで初の男女アベック優勝となりましたので、歴史に残るすごい快挙だと言われました」
ユニバーシアード大会が終わってから、セブンズ日本代表候補のセレクションを受けて、数ヶ月合宿をした後、カナダのバンクーバーセブンズ大会で、日本代表初キャップを獲ることができました。
キャプテンとして苦しかった最終学年
4年生になると、大東文化大学ラグビー部でも主将を務めた。
「僕は主将キャラじゃないんですけど、コーチとかも含めてやってくれっていう感じだったので。僕は自由にやりたいタイプのプレーヤーなので、やっぱりキャプテンっていう肩書きは嫌だったんですけど、それを気にせずにやろうと思ってやっていました。
キャプテンだからどうこうというのは無かったかもしれないですね。本当に僕も自由にやらせてもらったので、下の学年もそうですし、同じ学年の子たちにも自由にやってほしいというのが自分の気持ちだったので」
自分のプレーでチームを引っ張るキャプテンになろうと考えた。だから生活面とか練習、コミュニケーション等は、副キャプテンに頼んでいた。
そうやってキャプテンとして臨んだ4年生の最後の大会。その開幕戦の後半79分に、味方の選手とぶつかって右足首が折れてしまった。結局、シーズン中に怪我は完治せず、その試合が大学で出場した最後の試合となった。
「4年の時はファカタヴァ兄弟も卒業してしまって、戦力的に苦しかったですね。そういう状況で自分が怪我してしまったので、責任感を感じていました。でも、怪我したからこそ見えてきたこともありました。それまでずっとピッチに立っていたので、グラウンド外から練習を見た時に、『ああ、今こんな感じなんだ、こんな感じだったんだ』っていうのに、気づけるようになりました。色んな経験をさせてもらって、濃い大学4年間だったなって思います。楽しかったですね」
リコーブラックラムズ入団
「1年目、2年目は壁にぶち当たりました。今まで本当にゲームメイクとか考えずに自分のやりたいようにプレーをしてきたのですが、いざリコーに入った時にゲームマネージメントだったりとか、そういうことが全然上手くできませんでした。かといって、やっぱり自分の持ち味を出したいと思ってやったプレースタイルだったりランだったりも通用しませんでした」
それまでは、どのステージでもスタートから試合に出ていたのが、試合にも出られなくなった。
「悔しいという気持ちもありましたし、自分はまだトップリーグで試合に出られるレベルではなかったということを実感して、壁にぶち当たりました」
2年目に入るとシーズン開幕戦から出場できたが、コロナ感染の影響で試合数も少なく、全てリザーブでプレータイムも少なかったので満足できる結果ではなかった。
「自分の中ではもっといけたはずだと思っていましたし、社会人はそんな甘くない世界だなって感じました。挫折じゃないですけど、本当にこのままやっていけるのかと壁を感じていました」
3年目は、オフシーズンからコーチやいろんな人達にサポートしてもらって、個人練習でパスを多めにしたり、練習への取り組み方を変えた。また、ゲームマネージメントをもう一度学び直したりもした。結果、2023-24シーズンは一試合以外は全てリザーブだったが、公式戦16試合に出場することができた。
「2023-24シーズンは、リザーブとしてやりきろうと思って臨みました。自分のプレースタイルの強みを出すためにも、ブースターとして最後に試合を終わらせに行くっていう役割に振り切りました。まずは試合に出ることを最優先にして、リザーブとして自分の持ち味を出そうと思ってシーズンに挑んだので、その部分に関してはすごい嵌ったと思います。
シーズン後半になるにつれてプレータイムも少しずつ増えていって、相手が疲れた状態の中で自分みたいに元気な選手が出て、チームに勢いを与える。自分が行くことによって周りもやっぱり行かないとっていう気持ちにさせることができて、チームにコミットできてきたかなと後半戦は感じました。南が入ってきたら、クイックがあるなとか、こうするかもしれないって、出ているメンバーがわかってくれていたので、やりやすかったです。シーズン後半に関しては、大学の時のような感じでできましたので、ラグビーが楽しかったです」
来シーズンに向けての取り組み
「昨シーズンの取り組みがすごくいい結果に繋がったので、パス練習だったりとか去年と変わらないことをやろうと思っています。
それと自分も去年の7月にプロ選手になったので、ラグビーに費やせる時間も増えましたので、今まで以上に体づくりだったりもしっかりしないといけないと思っています」
「今はオフシーズンなので、暇さえあればラグビーのことを考えたり、ラグビーに対して以前よりもっと熱意を持ってやっています。試合をたくさん見たりとか、自分と同じポジションの選手を見て勉強したりとか、ラグビーにもっと集中してやっていきます」
自分にとってラグビーの魅力とは
「ラグビーの楽しさって人それぞれあると思うんですけど、自分の楽しさとしては、自分がボールを持って走ってトライをすることとか、自分がダミーで抜けてチームにトライアシストできたりとか。
ラグビーって激しくて怪我も多いスポーツなんですけど、嫌にはならないですね。怪我しても走り続ける選手がいたりするし、絶対どこかみんな痛いんですけど、それでもやっぱり弱音を吐かずにやってる姿を見ると、自分も負けられないなと思います。
何よりやっぱり試合に勝った時の嬉しさっていうのは本当に何ものにも変えられないですね。どれだけしんどい練習しても、どれだけハードワークしても、どれだけ体ぶつけても、勝って最後にみんなで笑い合えた時は、苦しかったことは全部忘れてしまいます。
あとは勝った時に、ファンの人たちからおめでとうとか直接声を掛けてもらえることも、本当に嬉しいことですし、ラグビーをやっていて良かったなと感じます」
ファンの皆さま、南 昂伸選手がボールを持って走り出したら、きっとチームに勢いが付きます。2024-25シーズンに向けて、さらに進化した姿を楽しみにして応援よろしくお願いします!
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