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『ラグビーとは、人生そのもの。』 PR パディー・ライアン

「もし人生にラグビーが無かったら?」という問いかけ自体が、パディーにとっては成り立たない気がする。それくらいラグビーとは切っても切れない人生を歩んできた。そんな彼でも、オーストラリアでラグビーを始めた頃は、将来ニッポンという国で暮らしてラグビーをやっているとは想像もできなかったことだろう。だから、ラグビーも人生もおもしろい。パディー・ライアン選手のこれまでの歩みを一緒に辿ってみよう。

ラグビーファミリーに生まれて

父親の祖父であるアンブローズ・ライアンという方が、1908年にラグビーオーストラリア代表としてプレーしていた。それもあってライアン家にとって、ラグビーはとても大事で大きな存在だった。パディー選手の父親はお医者さんをやっていて、ラグビーはそんなに上手くなかったようだが、とてもラグビーを愛していた。
 
ライアン家の男子は、父親も含めて皆オーストラリアで一番有名なラグビースクールであるセントジョセフ・カレッジという学校に入って、寮生活を送りながらラグビーをやっていた。つまりパディーは、ラグビーファミリーに生まれたのだ。
 
「だけど、9歳ぐらいまでラグビーはやっていませんでした。僕は結構体が大きくて、やんちゃなタイプだったので、9歳ぐらいまでお母さんからラグビーはやっちゃダメと言われていたんですね。なので、それまではサッカーやクリケットや水泳なんかをやっていました。
 
でもラグビーを始めてからは、もうずーっと本当にラグビーが大好きでしょうがなかったです」
 
9歳から14歳までセントジョセフ・カレッジで寮生活をしていた間は、週末に最低でも2試合、マックスだと8試合やることもあったという。

「選手が必要な試合があれば、もうどのチームでもいいから、どのポジションでもやるっていう感じで、結果的にたくさんの試合に出ていました」
 
オーストラリアでは、15人制のユニオンラグビーと13人制のリーグラグビーの二つとも盛んである。しかしパディーがやったのは、ユニオンラグビーだけだった。ライアン家の男子がやるのは、ユニオンだけなのだ。

「ポジションは、ずっとプロップです。9歳までやっていたサッカーではゴールキーパーだったので、ラグビーのプロップに転向することはそんなに難しくなかったですよ(笑)。父がよく言っていたんですけど、一度フロントローになったら、もう一生フロントローをやるしかない。そこから下がることはないって」
 
1999年のラグビーワールドカップで、オーストラリアが優勝。フランスで行われていたので、その期間は父親と一緒に夜中に起きて一緒にテレビを見ていた。それ以来、ワラビーズ(※15人制ラグビーオーストラリア代表チームの愛称)の一員としてワールドカップに出ることと、ワラターズ(※スーパーラグビーに参加するシドニーの15人制ラグビーチーム)でプレーすることを夢見るようになった。
 
その後、州代表としてU16に選出され、州対抗の試合にも出場した。

「12年生の時には、カートニー・ビール(Kurtley Beale.元ワラビーズ)なんかと一緒で楽しかったですよ」
 
そして、U18オーストラリア代表にも選出されるようになった。その頃には身長は今と変わらない190cmぐらいになっていて、体重は今よりは少し軽いが105kgぐらいになっていた。U18オーストラリア代表としては、フィジー、トンガ、ニュージーランドなどと対戦した。

シドニー大学入学

「高校卒業後にワラターズのアカデミーに行くということもオプションとしてはあったんですけど、卒業したらすぐアイルランドでプレーしたかったんですね。なぜなら僕のファミリーのオリジンがアイルランドだったので、行って確かめてみたかったんですね」
 
2006年に高校を卒業して、2007年にアイルランドに渡航。アイルランドでは、学校に通いながら仕事もやり、ラグビーもやっていた。2008年にオーストラリアに戻って、シドニー大学に入学。
 
「その時ではタイミング的にちょっと遅かったので、ワラターズアカデミーには参加できませんでした。でも、プロップにとってアカデミーに入ることはそんなに重要ではなくて、いいクラブに所属していいパフォーマンスをすることができれば、小さい頃からの夢を達成することができるんじゃないかなと思っていました」
 
オーストラリアの大学ラグビーリーグのあり方は、日本とは少し違う。各大学だけが参加するリーグもあるが、大学の強豪チームは、シドニーのアマチュアトップクラスのチームだけが加入できるリーグに参戦する。シドニー大学も大学のリーグには参加しないで、そこに参加していた。

ワラターズ入団

2009年に、ファーストグレードというアマチュアリーグで優勝した後、すぐワラターズに入団。パディーはワラターズのホームタウンであるシドニーで育ったので、ワラターズでプレーすることが夢だった。しかしチームが強い時期に入団したので、初めの2年間は公式戦の出場機会は無かった。だが、とにかく夢が叶ったのだ。
 
「エキサイティングっていうか、夢だった生活が現実になったわけなので、めちゃめちゃ楽しくててしょうがなかったです。まだまだ若くて、プロフェッショナルとはどういったものかも全然わからなかったのですが、いい先輩がたくさんいてくれました」
 
「2011年ぐらいから試合に出られるようになりました。ブルースとのセミファイナルの試合が、スーパーラグビーデビュー戦です。すごくいいパフォーマンスとは言えなかったかもしれませんが、ワラターズの一員でいることを恥じないようなレベルではあったと思います。父や家族とかみんな観に来てくれて、大きなハグをしました(笑)」

ワラビーズに選出される

ワラターズでスーパーラグビーデビューしたそのシーズンで注目に値するパフォーマンスを出すことができたし、ワラビーズのプロップに怪我人が出ていたこともあって、翌年ワラビーズに選ばれました。スーパーラグビーの経験がまだ15試合ぐらいしか無かったので、メディアからまだ試合経験が足りていないんじゃないかとよく言われていました」
 
「ワラビーズに入った当初は、ナーバスで常に緊張していました(笑)。でも、ワラビーズでいられることが嬉しくて、とにかく楽しくて、興奮が抑えられなかったですね。一分一秒、本当に全てが楽しかったです」
 
ワラビーズでの活動では、もちろんハードな経験もあった。しかし、当時は若く自分に自信があったので、精神的に苦しいと思うことは無かった。当時は自分に自信をちょっと持ちすぎていたかもしれないと、振り返る。
 
「そこまで順調に来ていましたし、多分自分たちが次の世代の代表だというような思いだったんですね。でも、そこからちょっと悪いシーズンを経験しました。自分の準備不足もあったし、怪我もあったりで、ワラビーズにも選ばれなくなりました。今振り返れば、当時はその権利もなかったと思いますが」
 
そこからもう一度自分と向き合って、何をすべきか確認し直さなければいけない時期を過ごした。そのプロセスを踏んで、またいいラグビーができるようになっていった。
 
「インターナショナルラグビーに関しては、そこから僕はワラビーズに戻ることはできませんでした。惜しいところまで行ったこともあったんですけど、ワラビーズの一員としてのポジションを取り戻すことはできませんでした」

宗像サニックスブルース入団

「2018年に、いくつか移籍のオプションがあった中で、日本でハッピーないいラグビークラブがあるという話を受けて、ワラターズから宗像サニックスブルースに移籍しました。サニックスのホームは海の近くにあって、僕が元々住んでいたところも海の近くだったので、それも移籍を決めたポイントでした。サニックスでのラグビーライフは、本当に楽しかったです(笑)。選手やスタッフはもちろん素晴らしかったですし、食事もすごくおいしくて」

ワラターズの選手として、スーパーラグビーでサンウルブズと対戦したり、日本のチームとフレンドリーマッチをやったこともあった為、ゲームのスピードが速いことや、スクラムがすごく低いことなど、ある程度日本のラグビースタイルは知っていた。
 
それでも、サニックスに入ってスクラムを組むことに初めは苦労した。日本人選手にも助けられ、ヨガをたくさんやったりして、低くスクラムを組めるように適応していった。

2019年は、日本でラグビーワールドカップが行われた関係で、トップリーグのシーズンインが遅くなり、オフシーズンが長くなった。パディーは早く試合に出たかったため、当時監督だった藤井氏(※藤井雄一郎氏。元日本代表強化委員長。現静岡ブルーレブズ監督)に相談して、アメリカのMLRサンディエゴに期間限定で移籍をしてプレーした。

日本でプレーするようになって、日本とオーストラリアのラグビー文化の違いも感じた。オーストラリアであったら、自分の生まれ育ったエリアのチームを誇りに思って、そこのチームに入るのが夢のようなところがある。

「日本だと大学でラグビーをやって、卒業後は自分の生まれ育った地域には関係なく、気に入った社会人チームを見つけるっていう感じですね。だけど自分が所属するチームに対する選手たちの情熱には、すごく驚きました。大事な試合で勝った時に、相手チームの多くの選手たちが泣いていたことがありました。オーストラリアであれば生まれ育った地域を代表してプレーするのと同じくらいの、強いパッションを持ってラグビーに取り組んでいることに驚きました」

リコーブラックラムズ東京入団

2021-2022シーズンをもって、宗像サニックスブルースが活動休止になってしまった。パディーも彼の妻も日本での暮らしも気に入っていたので、日本に残りたかった。妻が先に東京で働いており、パディーも2022年に東京に引っ越して数ヶ月の間チームを探していた。
 
いくつか話があった中で、当時3番プロップに怪我人が多く、カテゴリーCのスポットも空いていたリコーブラックラムズ東京に入団することになった。

「ブラックラムズは素晴らしいチームだし、日本一良いロケーションのクラブなので、待っていて良かったです。英語で「ハッピーワイフ、ハッピーライフ」と言いますが、奥さんがハッピーであればすべてOKです(笑)。みんなすごく仲が良くて、スタッフもすごく助けてくれますし、お互いのことを助け合えるチームの一員になれて感謝しています」

サニックスのラグビースタイルは、早いオフロードラグビー、速く動いて早くボールを動かすスタイルだったが、ブラックラムズは大きな選手のフィジカルを活かしたラグビースタイルを取っている。
 
「ブラックラムズがいいラグビーをしている時は、大きいフォワードがフィジカルにファイトして、バックスも大きい選手がフィジカルを生かしてスペースを生み出してトライを獲っていきます。どちらかと言えばブラックラムズのラグビーの方が僕には合っているかなと思いますが、どちらも楽しんでやれてます」
 
「チームにはすごくいい選手たちが揃っていて、学ぶことに対してもすごくオープンな姿勢を見せてくれています。エキストラトレーニングもすごく良くやるし、ほんと僕も楽しんでやっていますし、コミュニケーションをとることが、僕の日本語の上達にもつながっています。若い選手たち全員と、いろいろやりとりすることを、僕も楽しんでやってます」

昨シーズンは、スクラムに関しては悪く無かったと感じているが、チームとして良い結果を残せなかった。その原因は、まだ答えを見いだせていない。
 
「ラグビーにはいろんな面があって、いろんなパーツが関わっているので、何か一つにフォーカスすればいいっていうことでは無いと思います。結局そこだけ強くしても、相手からしたら「そこが無理だったら他のオプションがあるよね」っていうことになると思うので。
 
ゴルフみたいな感じかなと思います。スイングの一部分にだけフォーカスしてしまうと、他の部分はもう忘れちゃってうまくいかないのです。またリーグのレベルがかなり上がっていることもあると思います。今や、どこが勝ってもおかしくない状況になっています」
 
フロントローの目標としては、誰が入っても遜色ないように層を厚くしたいと考えている。スクラムにしてもジェネラルプレーにしても、誰が出てもレベルが変わらないようにすることを目指している。それは去年も取り組んできたし、引き続き今年もやっていきたいと考えている。

ラグビーの面白さや楽しみ方

「プレーの面では、まだ少年のような気持ちで人に突っ込んだりとか、そういうのがすごく好きです。オフフィールドでいえば、英語をメインとしない外国に住むことって、すごくレアなことだと思うんですね。ラグビーをやることによって、食べ物だったり人だったり文化を経験することは、なかなかできない、すごく特別なことだと思います。
 
ハードワークした後は、フロントローの仲間と一緒にパーティーするのが大好きです。去年のハロウィンパーティーとかもすごく楽しかったです。若い選手達には最後までは付いていけないですけど、とりあえず早い時間帯は頑張って一緒に楽しんで、早めに寝るようにしてます(笑)」

シニアプレーヤーとしての役割とファンへの感謝

プレーヤーでありながら、豊富な経験値を若い選手に教える機会も多い。将来、コーチになることも視野に入れているのだろうか。

「選手を引退後どうするかは、まだあんまり考えてないですね。今はプレーすることをまだ楽しんでやっています。ただシニアプレーヤーの役割として、メンターになったり、コーチングしたりとかっていうのも、やっぱり入ってくるのかなと思います。できるだけ長くプレーし続けたいと思っています。

昨シーズンは本当にタフなシーズンでしたが、それでもファンの皆さんが毎試合観にきてくれました。バスで会場入りする時にファンの方々が見えたり、試合中にスタンドのファンの方々が見えたりすると、本当にとにかくこの人たちのためにプレーしようと、心が奮い立ちます。
 
チャントとか応援歌とか、声もよく聞こえて、本当に感謝しかないです。ファンの皆さんは、僕らのクラブの一員だと思っていますし、皆さんが僕らのファンでいてくれて、本当に良かったなって思ってます」

今シーズンも、頼もしい「スクラム番長」の活躍に期待したい。ファンの皆さま、パディー・ライアン選手に大きな声援をお願いします!


 



 


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