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もっと成長し続けるために。 No.8 / ブロディ マクカラン

時折関西弁の交じる日本語を慣れた感じで話す。このインタビューも、通訳無しで日本語で行った。だが帝京大学に入学してラグビーをやるために日本に来る前は、日本語は全く話せなかった。自分をもっと成長させるために、大事なターニングポイントで環境を変えてラグビーを続けている。これからの成長ぶりも益々楽しみな、ブロディ マクカラン選手のこれまでの道のりを辿ってみよう。

父からのプレゼントはいつもラグビーボール

5歳の時まではサッカーをやっていたが、父親がラグビー選手だったので、その父を目標として6歳からラグビーを始めた。父親の現役時代にはラグビーはまだプロ化してなかったが、ワイカト州代表選手として10試合ほど出場経験がある。

マクカラン一家が住んでいたのは小さな街だったが、クエイド・クーパー選手など何人かの有名なラグビー選手の出身地でもあった。

「家の中には、いつも10個ぐらいのラグビーボールが転がっていたね。僕プラス2人の弟の誕生日とかクリスマスには、プレゼントにいつもラグビーボール(笑)。いっぱい使って、すぐぼろぼろになってた」

ちなみにすぐ下の弟は、現在東芝ブレイブルーパス東京に所属しているニコラス・マクカラン選手。その下の弟は、25歳で現在ワイカト州代表になっている。

「3人、顔が一緒(笑)」

ニュージーランドでは、基本的に学校ではなく地元のクラブでラグビーを始める。6歳の時に入ったのは、サザン・ユナイテッドRFCというクラブで、4歳から上は40歳以上まで、さまざまなグレードのチームがあった。

ラグビー名門校のハミルトンボーイズハイスクールへ

13歳で、ハミルトンボーイズハイスクール(中高一貫校)に入学する。ハミルトンで最初の頃はU14やU15のチームに配属されたが、17歳と18歳の時には学校のトップチームである『1st 15』チームに入ることができた。17歳の時の『1st 15』チームでは、ひとつ上の学年にジェイコブ スキーン選手がいた。

「僕の地元の街にはアイランダー出身の体が大きい選手が多かった。U15チームでやっていた頃まではフィジカル的には差は感じなかったけど、『2nd 15』チームに入ってからはレベルの違い感じた」

17歳の時には、サニックスワールドユース大会に出場するためにジェイコブ スキーン選手らと一緒に初来日。その大会では優勝したが、振り返れば、濱野 大輔選手の所属していた桐蔭学園高校とも試合を行っていた。

「その時は、将来日本でラグビーをやるとは全然考えてなかったですね。でも日本の選手はみんな優しかったし、試合後にすぐ話したり、何人かは英語もうまかった。あとグラウンドに入る時や出る時にお辞儀をしているのを初めて見て、すごくリスペクトを感じた」

ハミルトンにいた時は、州のU14、U15、U16代表にも選ばれていた。だが3年生の時に肩の怪我をして、1年間ほどラグビーができなくなってしまった。

ハミルトン卒業後、大工さんをやりながらのラグビー生活

「そのリハビリ中に大工さんの勉強をして、高校卒業後は2年間ぐらい大工さんをやりながらクラブチームでラグビーをやっていた。すごく楽しかったね。オフィス・ジョブとかはあんまり好きじゃなくて、外でのジョブが好きだったから」

クラブでの練習は、火曜日と木曜日に仕事を終えて夕方6時から。それ以外にワイカト州のアカデミーにも入っていたので、その練習が月曜日にあった。土曜日は試合。みんなラグビーが好きでやっていた。試合が終わったら、みんなで一緒にビール飲むのが楽しみだった。

「その時のクラブコーチのグレッグ・スミスさんが、帝京大学でスポットコーチもやっていたんですね。ちょうどその頃,帝京でフランカーとNo.8を探しているということでスミスさんが僕を推薦してくれて、トライアウトを受けに帝京が合宿をしていた菅平に行きました。3週間ぐらいB/Cチームに入って練習に参加しました」

「怪我で一回手術してブランクがあったので、自分のラグビー選手としてのランキングは下がっていると思って、ニュージーランドでプロ選手になるのは難しいかなと考えていた。それで、違う国に行ったら全部0からフレッシュになるので、いいチャンスかなと思った。未来が見えたので、日本に行って帝京でラグビーをやるのがいい方法かなと思ったんですね」

トライアウトに見事合格。翌年、帝京大学にに入学することになった。

帝京大学ラグビー部入部

「最初は帝京のことを全然知らなくて、日本人に聞いたら、ラグビーすごく強いよって言われた(笑)」

来日前、日本語は全く話せなかった。帝京に入学した年は、4年生に外国人選手が一人いたが、その選手が卒業したら外国人はブロディ一人になった。

「帝京では、寮生活をしてました。狭い部屋で他のルームメイト三人と生活していたので、日本語がうまくなってしゃべるしかなかった。しゃべらんかったら友だちも作れないし、人生面白くないので、早く日本語を覚えた。最初はちょっと間違えもあったけど、良かった」

ブロディにとって、毎日午後2時半から6時までの練習はすごくタフで長くて、きつかった。

「ハミルトンでもほぼ毎日練習はあったけど、長くても1時間半ぐらいだった。でも結果として帝京は優勝してるし、トップリーグのチームとやっても勝ったことがあるぐらい強かったね」

「今の奥さんと15歳から付き合っていたので、離れ離れになってしまったのは寂しかった。あと家族に会えなかったけど、3年生になって、弟が来たので良かった」

帝京大学にブロディが入部してからも、1年生から3年生まで優勝を重ね、大学選手権9連覇を達成した。

「4年生の時は、バイスキャプテンをやってました。ミーティングの時に日本語でモティベーションの話をしたりするのは、ちょっと難しかったね。日本語で心から熱く話すことと間違えないように話すことが難しかったけど、いいチャレンジだった。色々考えなくちゃいけなかったし、日本語も勉強したし」

そして、4年生の時についに連覇は止まってしまった。

「4年生の年は、3回明治に負けた。優勝できなかった。その明治が大学選手権優勝した。明治に負けた試合は、フォワード全員4年生だったけど勝てなかった」

大学卒業後、神戸製鋼ラグビー部入部

神戸製鋼コベルコスティーラーズは、ブロディが入る前年にトップリーグ優勝を果たした。また、ダン・カーター、アンドリュー・エリス、ブロディ・レタリック、ベン・スミス、アーロン・クルーデンといったビッグネームもチームメンバーに名を連ねていた。そういったチーム状況もあり、入部1年目は外国人選手としてカテゴリーBでもあったので、試合出場メンバーに入るのは厳しかった。そして、コロナの影響でリーグは途中で終了してしまった。
 
「神戸のラグビーは、結構ボールを動かして、あんまり切らないし、アタックにフォーカスして、スペースを探してどこからでもアタックする。それが楽しかったね。練習でもいっぱいボールを動かして、ハイリスク&ハイリターンなラグビー」
 
神戸製鋼での2年目のシーズンの終わりに試合で肩を脱臼してしまい、3年目のシーズンが始まる2週間前までリハビリに費やした。3年目からは、カテゴリーA選手になれたので、外国人枠人数制限を受けないで試合に出ることができるようになった。

「3年目を終えてまだ27歳だったで、これからも成長できると考えて違うチャレンジをしたいと考えました。違うスタイルのラグビー、考えの違うコーチ、異なったゲームプラン、それをするために今チームを変わるべきか、そのまま神戸製鋼に残るべきか悩んだ」

リコーブラックラムズに移籍

「神戸製鋼にいた時に、今自分たちがDNAと言っているリコーブラックラムズの諦めないプレーがすごくいいと思ってた。スーパースターを獲って来ないところも好きだった。ビッグネームが移籍してきて短期間でまた出て行ってしまうと、チームカルチャーにならないと思うんですね」
 
「僕は家族もあったし、違うステージに進むチャンスだと思った。神戸には3年住んでいて良かったけど、また違う東京に家族と一緒に住むことにも魅力を感じました。ラグビーだけでは無く、家族にとってもいいチャンスだと。いいコーチもいるし、何試合か試合をして日本人のいい選手もいることを知っていたし。ここでなら絶対成長できるという気持ちで、リコーに移籍することを決めた」

「入ってみると、みんなすごいハードワークするし、あんまり言い訳しないし。ハードに練習するけど、いいチーム。みんな仲いいし、ラグビー以外でも一緒に遊ぶし、みんな優しい」
 
「みんな成長したいから、チーム練習が終わってからも個人練習してる。外国人選手の家族も、まだ会ったことも無いのに”Welcome to RICOH!!”という感じで、すぐ僕の奥さんにメッセージくれた。すごい入りやすかった。ご飯を一緒に食べに行こうと誘ってくれたり、本当にファミリーな感じ。このチームみたいに選手の家族も含めて距離が近いチームは、他に無いんじゃないですか。家族もいつでもグラウンドに入ることができるし。たとえば秩父宮ラグビー場での試合後にも、すぐ家族と会えることは本当に嬉しい」

昨シーズンを振り返って

「まぁ、絶対もっと上で終わるかなと思った。クロスゲームで負けた試合が3、4試合ぐらいあって。それに勝てていたら、多分シーズン結果は全然違うものになっていたと思う。来シーズンは、トップ4に入りたいですね。絶対行けると思います」

「クロスゲームを落としてしまったのは、ディシプリンの部分が大きいと思う。シーズン始めはペナルティが多かったね。多分レフェリーの印象が悪くて、ペナルティが多いチームだという印象を持たれてしまって、シーズン前半は厳しかったですね。最後の5試合ぐらいは、修正できてペナルティも減って、いいゲームができてたと思う」

「自分個人としては、全試合出たし、最初は結構リザーブからだったんですけど、最後の半分ぐらいはスタメンになって、いいパフォーマンスができていたと思う」

「シーズン前半は、ちょっと上手くいかなかったこともあったけど、シーズン全体としては良かった。新しいアタックとディフェンスプランもあったし、ゲームプランにフィットして楽しかった」

来シーズンに向けての課題

「もっとボールに触っていいキャリーをしたいですね。あとは、言葉じゃなく、自分のプレーでリーダーシップを感じさせるようにしていきたいですね。それと、アマトと一緒に日本代表でプレーしたいね。今、日本代表をすごい応援してます。ジャパンの練習はすごいハードだって聞いたけど、アマトも頑張ってるからね」

ブラックラムズ東京ファンの皆さんへ

「勝っても負けてもグラウンドに来てくれる、すごいロイヤルなファンだと思ってます。昨シーズン第15節のトヨタヴェルブリッツ戦では、1万人以上のお客さんが来てくれてすごく良かった。大雨になって2回も中断したのに、3時間近くも残って待っていてくれて、すごいファンだと思いました。他のチームだったら残ってくれていないんじゃないかと思う。すごく大きな声で応援してくれて、グラウンドにいる自分たちも背中から押してもらっている感じがしました。ありがとうございました!」

ブロディは、一度は諦めかけたプロラグビー選手になる夢を日本で叶えた。そして今、自分の本当のファミリーもブラックラムズファミリーも、どちらも欠かせない存在となっている。そして私たちも、ブロディが欠かせない。ファンの皆さま、どうぞブロディ マクカラン選手の成長を見守り続けて、グラウンドでは大きな声援を送ってください!

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