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オーストラリア発→大阪→東京。 LO マイケル・ストーバーグ

ニックネームは、マイキー。身長202cm。LO以外のポジションはやったことが無いのかと思ったが、4歳からラグビーを始めて13歳ごろまではスタンドオフをやっていたという。子供の頃は様々なスポーツを経験するオーストラリアのスポーツカルチャーの中で、バレーボールやクリケットも並行してやりながら最終的にラグビーを選択。そのおかげで、巡り巡って、こうしてブラックラムズ東京の一員となってくれて、チームを牽引するベテランプレーヤーとして今や無くてはならない存在だ。マイキーのこれまでの歩みを辿ってみよう。

歩き出した頃から、そこにラグビーボールがあった

記憶を辿ってみれば、歩き始めた頃から父親とラグビーボールで遊んでいた。父はプロ選手ではなかったがラグビーをやっていたので、ラグビーが生活の中に身近にあった。生まれ育った街のラグビークラブに、4歳の時に入った。そこは6歳までのジュニアクラスから、大人のシニアクラスまであった。

そのクラブには父や叔父さん二人、それにおばあさんや家族の友達のシニアの人たちまでいたので、マイキーもキッズのクラスに入って一緒にやり出した。そのクラブでは15歳まで活動した。
 
「できるだけたくさんラグビーをやりたいって思いました。同じ学年では僕が一番背が高かったので、もうふたつ上の学年まで掛け持ちでやっていました。身長は、学校のクラスの中ではずっと一番大きかったですね。
 
ラグビーの雰囲気が楽しかったんです。フレンドシップがすごく感じられるスポーツで、それがすごい好きでしたね。そういうチーム環境が僕をハッピーにしてくれました」

様々なスポーツを並行して経験

「13歳頃からは、バレーボールもやっていました。オーストラリアでは、それぞれの学校でスクールスポーツみたいなものが決められていて、僕の通っていた学校は、それがバレーボールだったんです。僕は背が高かったので、その学校に入学すると、バレーボールをやらざるを得なかったという感じでした。
 
平日は学校の部活でバレーボールをやって、土曜と日曜はクラブでラグビーをやっていました」

バレーボールは、13歳から17歳まで続けた。それ以外にもクリケットもやっていて魅力を感じていたが、将来を考えるとラグビーを選択した。
 
「まだ若い時に決めなければいけなかったんですけど、クリケットってプロ選手になるのが難しいんです。世界でやっている国が少ないので、トップ1%に入らないと、プロ選手としてクリケットは続けられないんですね。
 
プロ選手になって世界を見るチャンスがあるところが、ラグビーを続けたもう一つのポイントだったかもしれないです」

13歳まではスタンドオフ

「1年だけリーグラグビー(13人制ラグビー)をやりましたが、ラインアウトが無いし好きではありませんでした。
 
ユニオンでは13歳まで10番をやっていました。お父さんがコーチで、自分は10番ができるってずっと言い続けて、お父さんを僕が説得しました。それぐらいの歳の頃は、細身で背が高い子供でした。13歳から2年間ぐらいでちょっと体重が増えたので、No.8に転向しました。15歳ぐらいまではロックはやっていませんでした」
 
10番は、楽しんでやっていたと当時を振り返った。
 
「その頃、トーナメントはたくさんありましたよ。毎年それぞれ年代別にありました。クイーンズランドのいろんなチームが出場する、日本でいえば花園で行われる全国高校ラグビー大会みたいな雰囲気ですかね。全部の年代がそういう感じでやってましたね」

常にベストのレベルを目指して

「その後クイーンズランドのU15チームに選ばれました。その時のキャプテンはリアム・ギル選手でした。その時が彼との初対面になりますが、長い付き合いになりますね(笑)。そこから奨学金をもらってブリスベンの学校に行きました」
 
マイキーは、ラグビーを始めた当初からできるだけ高いレベルでラグビーをプレーしたいと考えていた。ラグビーを始めた頃の一番高いレベルは、お父さんと同じぐらいにプレーすることだったが、その後経験を積んでレッズだったりワラビーズだったりと目標は変わっていった。だが、一番高いレベルでプレーしたいという思いは変わらなかった。

16歳からロックへ転向

「難しかったです。今でも、ラグビーで一番難しいポジションじゃないかと思っています。キック以外は全部やらなくてはいけません。本当に難しいポジションですが、今でも大好きなポジションでけどハードです。でも自分にとってベストポジションだと思っています。
 
面白いところは、常にゲームに絡めているところですかね。ノックオンがあったらスクラムをしなければいけないし、キックアウトされたらジャンプしなければいけないし。ブレイクダウンにも行くし、タックルもするし、ボールキャリーもするし、キックオフになったらキャッチに行くし、ロックは常に何か仕事があります」

プロラグビー選手となる

学校を卒業すると、ブリスベンのクラブと契約を結び、その後にクイーンズランドレッズ・アカデミーと契約を結んだ。その頃のレッズ本チームには、リアム・ギル選手が在籍していた。プレシーズンはレッズと合同でトレーニングを行って、シーズンが始まると、アカデミーだけのトレーニングになった。
 
「2010〜2013シーズンまで、クイーンズランドレッズの2ndチームに所属して、たくさんの試合に出ました。2013年にプレミアシップで優勝したことが思い出に残っています。ほとんどのメンバーが21歳〜22歳ぐらいで、子供のようにすごく楽しんだ記憶があります。そのメンバーの半分ぐらいはその後プロラグビー選手になりましたし、本当にラグビーが好きな選手が集まっていて、とても楽しかったです」
 
2013年のグランドファイナルを終えて、そこからキャンベラのクラブで6ヶ月程プレーし、その後ノースランドのチームに移籍して2シーズンプレーした。
 
「その頃の僕にとって一番高いレベルがNPCだったのですが、ニュージーランドのチームに入ってスーパーラグビーに参加できる機会があったので、そこで僕のラグビーもレベルアップできるんじゃないかと考えて、ノースランドへの移籍の判断をしました。ノースランドには、24歳ぐらいまでいたかな。そこには、ジョシュ・グッドヒュー選手がいました(笑)」

2016年近鉄ライナーズ入団

「エージェントから、近鉄ライナーズがトンプソン・ルーク選手の後釜となれる若いロックの選手を探していると聞いて、彼から学べることも多いと思ったので近鉄に移籍しました。次のステップに移りたいという心の準備もできていたし、日本の早いラグビースタイルも好きだったからです」
 
「大阪は大好きです。東京も大好きなんですけど、大阪を先に経験して、その後に東京という順番で良かったと思います。逆の順番だったら、ちょっと辛かったかもしれませんね(笑)」
 
「夜に来日してホテルに宿泊した翌日、散歩に出かけたんですけど、『なんじゃ、これは!』と思いました。これは、クレイジーな経験になるなとワクワクしました。本当に初日は忘れられない経験になりました」
 
「僕の妻は、大阪の人たちが人との距離感が近いのにすぐに気がついたみたいですが、僕は背が高いので(笑)、すぐには気がつきませんでした。妻は、東京ではちゃんと自分のスペースを与えてくれるって言ってました(笑)」
 
「近鉄ファンの皆さんは、本当に素敵な人たちばかりでした。花園の近くに住んでいたので、ラグビーをやるのも生活するのも同じコミュニティで過ごしていました」

トンプソン ルーク選手からの学び

「日本のラグビースタイルは、思っていた通り早くてエキサイティングで、ずっと好きです。僕が来た当初は、9月からシーズンが始まったので暑い中でプレーするフィットネスもすごく大事でした。そういった中でもすごく楽しくて、ハッピーにプレーしていました」
 
「トンプソン ルーク選手からは、すごくたくさんのことを学びました。来日した時はラグビー選手としては自分はまだ若かったので、60キャップ以上の日本代表キャップを持っている彼と毎日接して競争することができて、技術はもちろん、メンタルの部分や日本でやっていくコツのようなところまで学ぶことができました。
 
マイキーは今、ブラックラムズに新しく入ってくる外国人選手に対して、かつてトンンプソン選手がやってくれたような役割を果たそうとしている。

「当時彼がしてくれたことをやってあげる順番になったと思いますし、トンプソン選手には今でも感謝しています」

2020年にはサンウルブズにも参加

「2019-20のシーズンは近鉄でほぼ全部の試合に出ていました。最終戦が秩父宮ラグビー場であって、新幹線で大阪に戻って、飛行機で福岡に行って、2週間後にサンウルブズに参加してスーパーラグビーの初めての試合に80分フルタイムで出場しました。

「タフではありましたね。でも、その時は若かったので大丈夫でした。コロナが少し始まった頃で南アフリカには行けなかったことがすごく残念でした」
 
その後の2021年は、コロナの影響で日本でのプレーが制限されていたため、近鉄とパートナーシップ契約を結んでいたオーストラリアのレベルズで7 試合出場。

「サンウルブズの時には日本代表に近づけたと思いますが、日本を離れてオーストラリアのレベルズでプレーしていたために、当時の国代表資格の条件を満たすことができなくなってしまいました。コロナ感染の影響でしばらくの間日本を離れた為に日本代表選手の資格を外れてしまった選手は、他にもたくさんいたと思いますね」

リコーブラックラムズ入団

「リコーブラックラムズに入団することに関しては、全然迷いはなかったです。ここが自分にとってベストのラグビーができる場所だと思いましたので。
 
大阪と東京の一番の違いは、もう大阪弁を全部外さなければいけないところでしたね(笑)。ブラックラムズに来た初日、僕は日本語がそんなに流暢なわけでは無くて、喋るより聞く方が得意でしたが、聞いていて大阪弁とは全然違うと思いました(笑)。それと僕がなんか喋ると、多分かなり大阪弁なのでみんな笑っていました。トークのところが、一番違いを感じた部分ですね(笑)」

近鉄ライナーズにいた頃の、リコーブラックラムズの印象を訊いてみた。

「リコーは、とにかく毎回倒さなければいけないと思っていた相手で、
プレシーズンでも定期戦がありましたし、自分たちの実力を測れる相手だったので、自分たちにとってはとってはビッグゲームでした。リコーは、大きな選手が多くてハードなチームだなと思っていました」

2022年、リーグワンに変わって

「まず開催方式が変わりましたね。12チームになって、同じチームとホームとビジターで2回対戦しますし、イージーウィークというものが存在しなくなりました。今年もかなりハードなシーズンになると思います。でも、それが求めていた形なんだと思います。
 
どこがどこに勝ってもおかしくない、アップセットがいつ起こるかわからないレベルになったので、エキサイトしています。それはラグビーファンにとっても、試合を観に行くモチベーションになるんじゃないかと思います。そこが一番変わったところだと思います」

チーム新体制になっての変化

「エキサイティングしています。新しいヘッドコーチに変わって、新しいスタイルに変わった時は、やっぱりみんなエキサイティングな気持ちになりますよね。ベテランになっている僕らですら、物事の考え方が変わったりして学ぶことも増えたし、そこからはやっぱりいいことしか得られないと思います。
 
練習での競争も、今までに比べてすでに高いレベルになっています。どのポジションも、かなり競争が高くなっていると思います」

ラグビーの魅力とは?

「どこでやっても、ラグビーの魅力は変わらないですね。いろんなラベル付けをされたり、呼び方が変わったりするかもしれないんですけど、結局は15人でチームとして一番うまく動けた方が、10回中9回は勝ちます。そこがラグビーのいいところであり、そこを目指しています。例えば選手が大きくて、早くて、強かったりすることは、もちろんプラスにはなると思うんですけど、ただそれだけじゃ無いと思います。
 
プレッシャーがかかった時や、ハードなシチュエイションになった時にどうやってみんなで戦い抜くかというところが、重要になってくると思います。でも、それが最高に面白いと思います。例えばプレミアシップのファイナルに出ているチームであっても、どんなリーグでやっているチームであっても、簡単では無いと思います。だからこそ、そこが面白いと思いますし好きなところです」

ブラックラムズファンへのメッセージ

「ブラックラムズ東京のファンは、パッションの見せ方が近鉄ライナーズファンに比べればクールですよね(笑)。でもブラックラムズファンは、ファミリーの一部っていう感じで、ラグビー以外でも僕らがどんなことをやりたいかということを理解してくれている感じがします。
 
例えば二子玉川ライズのイベントに行っても、サインを求められたり写真を一緒に撮ってくださいと求められる以外に、自分たちの活動全般に興味を持ってもらえていると感じる部分があります。選手を人として気にしてもらっているところが嬉しいです」

マイキーこと、マイケル・ストーバーグ選手は2mを超える身長があるので、少し話かけづらいかもしれませんが、実はお話も大好きです!ぜひ、マイキーに今シーズンも大きな声援をお願いします!!

 

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