『ラグビーからもらった、宝もの。』 CTB 濱野 大輔
小学校4年生の時に父親の仕事の関係でイギリスに渡り、言葉も通じない地元のラグビークラブに入って、現地のでっかい子供たち相手にタックルで勝負した。その後ラグビー歴を重ねていっても、言葉より自分の体を張ったプレーで信頼関係を築いてきた。優勝をノルマとされていた名門高校〜名門大学を経て、リコーブラックラムズ入団。だが、順風満帆なことばかりでは無かった。昨シーズン中に選手生命を脅かすほどの大怪我を負ってしまい、今はまだリハビリ中だが、その経験をもチームのために役立てようとしている。濱野大輔選手の、これまでの道のりをいっしょに辿ってみよう。
5歳の頃、父に連れられてラグビースクールへ
幼稚園年長クラスの5歳の頃、かつて早稲田大学ラグビー部員だった父親に家の近所にあった「田園ラグビースクール」に無理やり連れて行かれたのが、それからの長いラグビー人生の始まりとなった。そこは、幼児クラスと小学生クラスとで100人を超えるぐらいの大きなラグビースクールだった。
濱野本人ははっきり覚えていないが、スクールに入る前から父親とラグビーボールで遊んでいたらしい。
「当時、僕は正直ラグビーにあまり興味が無かったというか、そもそもルールすらも全然分からない状態でした。それに、最初はコーチが怖かったし、毎回傷を作って帰ってくるのも嫌だったし、なかなかすぐにはラグビーに魅力を感じられませんでした」
2002年の日韓共催サッカーワールドカップ大会の影響で、小学校1年生とか2年生の頃はサッカーをやりたい気持ちも濱野にはあったが、父親がサッカーやらせたくなかったようだ。
「小学校2年生まではタッチラグビーとか、遊び感覚だったんですけど、3年生ぐらいで公式戦が始まったんですよね。その公式戦で初めて完敗してしまって、その悔しさをすごく覚えていますね。すごく悔しい思いをして、めちゃくちゃ泣いて、もっとラグビーが上手くなりたいなっていう思いが、そこから少しずつ湧いてきました」
田園ラグビースクールに入っていた時には、リコーが主催するラグビークリニックやラグビーフェスティバル等にチームが招待されて、交流試合を行なっていたし、リコーの試合も観に行っていた。
「当時この砧のグラウンド来て、選手のクリニックとかを実際に経験して、社会人の選手がめちゃくちゃでかいなという印象がありました。この砧グラウンドで試合もやりました。そういうこともあって、リコーというチームは、僕の中では子供の頃から結構縁があったという感覚です」
その後小学校4年生の時に、父親の仕事の関係でイギリスに移住することになった。
本場イングランドで、現地のラグビークラブに入る
小学校は日本人学校に通ったが、ラグビーは「イーリング」という現地のラグラグビーフットボールクラブに入り、帰国するまでそこで約1年半プレーした。
「もう環境が一気に変わって、日本語も通じない中でクラブに入って数週間後に、公式戦の試合に出ることになりました。練習もほとんど無しに試合に出たので、僕がどんなプレーをするのかみんなまだ知らなくて、パスも回ってこなかったし、ボールにもろくに触れなかったのですが、自分の強みのタックルを結構決めることができたんですね」
タックルは、父親と公園などでよく練習していたので、結構自信があったのだ。
「親父から足首行けってめちゃくちゃ言われてて、僕からしたら、とにかく相手がみんなでかかったので、その低さを大事にやってました。試合が終わったら、いきなりチームメイトが寄ってきてくれて、信頼関係ができ始めました。そこから数試合こなしていくうちに、体を張ったりしっかりと前に出るっていう自分の強みを出していったら、言葉はあまり通じなかったんですけど、お互いわかり合えるようになっていきました。イギリスのでかいやつら相手でもタックルは通用して、できるんだっていう自信がつきました」
滞在中は、トゥイッケナム・スタジアム等にイングランドの試合を観に行ったり、ヨーロッパのチームの試合も何戦か観ることができて、もっとラグビーが好きになっていった。また滞在中に行われた2003年のラグビーワールドカップ大会をパブリックビューイングで観て、将来は日本代表でプレーしたい、目指したいという思いが、濱野の心に芽生えた。
現地の生活にもクラブラグビーにも慣れていったが、1年半ぐらい過ごしたところで、また父の仕事の関係で帰国することになった。
再び、田園ラグビースクールへ
「イギリスの小学4年生や5年生は、でかくてうまくてレベルがめちゃくちゃ高かったですね」
ラグビーの母国であるイギリスで本場のラグビーを肌と体で感じて帰ってきたので、帰国して日本でラグビーを再開するに当たっては自信を持っていた。プレーの実力を認められて、1学年上の6年生のチームの試合に出させてもらったりしながら、オフフィールドの部分でも、規律を守ること、挨拶や片付け、感謝の気持ちを大切にすることなども、当時のコーチから口酸っぱく言われていた。ラグビーのスキルだけでは無く、人間性として大切な部分も学ばせてもらっていった。
「僕は、このラグビースクールでラグビーができたということと、たくさんの仲間ができたということが、すごく宝ものになっています。今でも、当時のコーチや同期のチームメイトたちとよく連絡を取り合ったりしていますし、本当にいい仲間ができたと思います」
中学校時代は、 DAGS(ダックス)で活動
「中学生になると、学校にラグビー部が無かったので、部活ではサッカー部に入っていました。サッカーも好きだったので平日はサッカーをやって、なんとか体力維持をしていました。サッカー部の顧問の先生には、ラグビー優先でプレーさせてくださいということを最初にちゃんと話して納得していただいた上で活動していましたので、部活動もラグビーも両立させてもらって、充実した中学校生活を送れました」
「中学の時は、スクール対抗の県大会公式戦がありました。2年生の時は、3年生と一緒にプレーさせてもらって、県大会優勝しました。僕が3年生の代ではキャプテンもやらせてもらって、準優勝でした。
ポジションは、センターでした。まあまあ体は小さかったですね」
名門、桐蔭学園高校ラグビー部入部
「入ってみると、パスやキャッチのスキルが足りないとコーチ陣から徹底的に言われましたし、自分でもスキルの無さを実感しました。ほんと全然通用しませんでした」
部としての朝練は無かったが、スキルが追いつかなかったので、学校に毎朝早く行って、授業前に自主トレをやっていた。
「桐蔭は、目指してる場所が優勝でした。入った年の3年生は総合力がすごくあったし、1個上には松島さん(※松島幸太朗。現東京サントリーサンゴリアス所属)や小倉さん(※小倉順平。現横浜キヤノンイーグルス所属)など、黄金世代と言われたタレントが揃っていて、個人の能力でプラスアルファもありました」
1年生の時は何試合かメンバーに入ることができたものの、花園のメンバーからは最終的に外れた。スキル、コンタクトレベル、フィジカル面など、ラグビー選手としてまだまだ先輩たちとは差があった。
「2年の花園は、同点引き分けで東福岡との両校優勝だったのですが、最後にトライされて追いつかれたのは結構自分の責任でもあったので、悔しかったですね。先輩達の優勝っていうのを、僕のミスで潰してしまったなという思いがあって、その当時は心の底から喜べませんでした」
3年生時はキャプテンになり連覇を狙っていたが、ベスト8で終わった。その準々決勝で敗れた相手が、前年に両校優勝を分かち合った東福岡だった。
「最終的に負けてしまったんですけど、このメンバーでやり切れたっていう満足感が最後はありました。でもそこまでの道のりでは、やっぱりキャプテンとしてのプレッシャーはありました。
単独優勝を目指していたので、スタッフ陣からのプレッシャーもありましたし、選手からも厳しいコメントをもらっていた時期もありました。いろんなことを抱え込みながらその1年間プレーしましたけど、本当にいい経験をさせてもらえたし、苦しかったけど得るものが多かったです」
圧倒的に強かった、帝京大学ラグビー部入部
「父の通っていた早稲田を自己推薦で受けたんですけど、落ちてしまいました。どうしようかって悩んでいた時に、父親から誘われて帝京対早稲田のBチームの試合を観に行ったんです。そしたら帝京は体つきもスキルも全然違うし、早稲田を圧倒していたんですね」
当時、帝京が9連覇を達成する過程の3年目の年であり、無敵の強さを誇っていた。濱野の中でトップのチームでやりたいという思いが強くなり、桐蔭学園の藤原監督に進路の相談に行った。翌日、藤原監督が帝京のグラウンドまで連れていってくれて、岩出監督に引き合わせてくれた。そして大学ラグビー界トップの帝京大学でプレーしたいという自分の思いを直接伝えて、一緒に優勝目指して頑張ろうという言葉と共に受け入れてもらった。
「ラグビーよりも、人間力、社会貢献、社会で生きる力というようなことを岩出監督は重要視されていました。ラグビーのスキルよりも、ラグビー選手を引退してからの方を大事にしていました。なので、寮生活にしてもそうですし、ラグビー生活の中に人間性を高めるスキルトレーニングをやってくれてましたね。
会社みたいに、役割がグループに分かれていたんですよね。寮長がいて、学生コーチがいて、クラブハウスの規律を守るルールとかも学生たちが主体で動いて細分化されていました。その他に、選手主体でタグラグビーとかの大会も運営していました。
監督はその状況で気づいたことを選手たちに対してアプローチして考えさせて、選手たちでお互いにフィードバックし合って、意見を出し合った上で改善をするというように、岩出監督は選手に考えさせるように仕組んでいたので、本当に考える習慣が大学4年間でつきました」
大学1、2年生の時はC、Dチームだったが、3年目からリザーブに行ったり、Bチームへ入ったりできるようになっていった。そしてついに4年生の時の、大学選手権決勝と日本選手権のパナソニック戦で、スタートでの出場を勝ち取った。
大学4年生になると、学生コーチと寮長も務めるようになった。そういった役職を務めさせてもらったことで、ラグビー以外でも視野を広げることができた。
「桐蔭学園でも帝京大学でも指導者に恵まれましたし、先輩後輩、いいチームメイトとも出会えたし、その中で目指すところが優勝だったので、そこに対して日々自分たちで成長していこうという思いがありました。特に帝京の4年間は、ラグビーのことだけに限らずラグビー以外の部分で考えている時間が多かったので、常に目配り、気配りっていうのを意識してやってましたね」
リコーブラックラムズ入団
中学時代のラグビースクール時代からリコーラグビー部には縁を感じていたこともあって、大学卒業にあたってはリコーに進路を希望し、希望通りに入社することになった。
だが、いざ入ってみると、予想とは違ったチームの現状があった。練習に取り組む姿勢が選手によってばらつきがあったし、試合に負けてもさほど悔しがる様子も無い選手もいたり、何かすごく弱いチームだと感じた。その印象は、同期入部の松橋周平も同じで、二人でいつも話し合っていた。
「やっぱり僕はもう優勝を取りに行くぞという勢いで入ったのですが、いざ入ってみたら中がそういう状況だったので、同期で入ったマツ(松橋周平)と、『ほんと変えないとヤバい、これじゃ絶対優勝できないよ』って、よく風呂場でもロッカーでも話していました」
二人は、まず自分たちから態度や言動とかで示していくことにした。トップリーグの公式戦が始まると松橋はスタートから出て活躍したし、同じく同期の髙橋 敏也も1、2戦とも試合に出ることができていた。だが濱野は、1、2戦ともメンバー外でビデオ係をやっていた。
濱野のトップリーグ1stキャップは、第3節のサントリー戦となった。
「メンバー入りを言われて、めちゃくちゃ嬉しかったし、サントリーが相手だったのでめっちゃくちゃ気合い入っていました。結果は負けたんですけど、勝てる試合だったからこそすごく悔しかったです。ただもう本当に泥臭く、チームのために体を張って、自分の強みを出せたので、そこを監督から評価してもらって、そこから12試合出させてもらいました。マツとはそこから一緒にプレーをして、どうやったらチームを強くできるか、1年目はほんとにいつでも一緒に話した記憶がありますね。その年がチーム最高順位の6位だったんですね。1年目でその結果を残せたことは、チームとしても個人としても良かったですし、その中で自分自身もプレーさせてもらえたっていうのは、自分の中では一つの大きな財産になりました」
3年目のシーズンでは、濱野がキャプテンで松橋がバイスキャプテンを務めた。
「僕が3年目で主将をしていたシーズンのパナソニックとの試合で、当時30連勝の記録を作っていた相手ホームに乗り込んで、その記録を潰しにいこうと「スウィング・ザ・バット」というテーマを掲げて戦って勝ちました。
主将をやっていた中で、一番記憶に残る試合でしたね。リコーに入って、本当に今までのベストゲームだと思います。パナソニックのメンバーには日本代表が揃っていたのですが、みんなタックルやり続けて、プレッシャーかけ続けて、セットピースも安定して良かったですし、チャンスを掴みに行って勝つことができました」
今後ブラックラムズ東京が優勝するためには、調子の波を減らすことが必要だと語る。またそのためには、自信をつけることも必要だと。あとは全員が心の底からこのチームで優勝したい、このメンバーで優勝したいと思わないと勝てないと考える。
「でも僕が入った当時から今を比べると、練習に取り組む姿勢とか準備とか、本当にスタンダードが高くなってきて、それが当たり前になってきていると思います。そこの部分はほんと改善されたなっていうのはあります。今入ってくる子たちも、ほんとにレベルもモチベーションも高いし、このチームで結果を出したいって気持ちを持っています」
2024年3月13日、練習中に大怪我を負ってしまう
「15対15の試合形式だったんですが、僕がボールキャリーするという試合想定でのシチュエーションの中で、突っ込んでいったら、僕の頭が下がっていたところにディフェンスとハードに当たって、その衝撃で倒れました。
最初は脳震盪かと思ったんですよね。もう真っ暗になって、意識は一瞬無くなりました。仰向けになって、チームメートが声かけてくれてパッと目を開けて、体を動かそうとしたら全く動きませんでした。
その時点で僕は、『あっ、これはちょっととんでもない怪我をしたかな』って思いました。自分で全く体を動かせなかったんです。感覚が無くて、メディカルがすぐ来て触っても、ビリビリってなって麻痺状態でした。これはちょっとやばいかなって。今まで僕は大きい怪我はしたこと無かったですし」
すぐに、砧グラウンドに救急車が呼ばれた。
「救急車に乗せられて、救急隊の方が自分のどこを触ってもわからないし、手を持ち上げられても勝手に落ちてきちゃうし、救急隊のソワソワしてる状態も見えていました」
病院に運ばれ検査が終わると、先生からは頸椎損傷の診断が下された。そして、『ちょっと今は何とも言えないです。ただリハビリで回復していく可能性がありますから、リハビリは2、3日後からすぐに始めましょう』と言われ、そのまますぐに救命病棟に運ばれた。
「今までに味わったことない感覚でしたね。もう手も動かすのもままならないし。携帯もいじれないし、自分でご飯を食べることもできないので看護師さんに食べさせてもらって、ナースコールも自分じゃ押せないし」
「自分はどうなってしまうんだろうって、その日の夜は結構考えましたね。寝返りも打てない状態だったので、歩けなくなるのか、介護生活が始まるのか、もう引退かとか、結構頭の中でぐるぐる駆け巡ってしまって、全く眠れずに、めちゃくちゃ泣きましたね。
その日だけめちゃくちゃ泣いて途方に暮れましたが、二日目は、リハビリで毎日少しずつできることを増やしていこうと考えて過ごして、三日目からリハビリを始めました」
リハビリ初日は、病室で「座る・立つ」というところからスタートした。ちょっと立ったら貧血のようにふらつく感じが結構続いて、生きている心地がしなかった。
「手はまだ何か麻痺している感じで、ぐらついている状態でしたし、手の細かい機能を戻す作業療法と体の機能を戻す理学療法の二つのリハビリがありました。
毎日のリハビリの中で、座ることと立つことができるようになったり、昨日できなかったことができたりだとか、毎日少しずつ自分のできることが着々と増えていきました。今度は車椅子から立って歩くとか、手すりにつかまりながら歩く練習も、何回かやっていくうちに感覚を掴めていけたんですよね。
自分の中で、毎日できることを増やそうというポジティブなモチベーションがあったので、リハビリがスムーズにいったのかなっていうのがあります」
病院でのリハビリ中に一番大きな力になったのは、仲間たちが連日お見舞いに来てくれたことだった。
「チームメイトやスタッフが連日お見舞い来てくれて、もう一回プレーしたいっていう思いが強くなりました。それがあったからモチベーションを保てたし、チームメイトもみんな待ってるよって言ってくれるし、誰からもネガティブなことは言われなかったし、ほんとに温かい言葉をもらってチームの愛情を感じましたね。また、妻や娘には心配をかけてしまったのですが、それでも支えてくれました。約二ヶ月間、家族のサポートには感謝しかありません」
4月6日に駒沢オリンピック公園総合運動場で行われた、リーグワン第12節 vs横浜キヤノンイーグルス戦 で、病院側から特別に外出許可をもらって試合を観に行くことができた。
「怪我をして3週間後ぐらいだったのですが、久しぶりに病院の外に出て、試合会場でみんなと同じ空気吸って、立って、みんなの頑張っている姿を見て、そこでまた一つエネルギーをもらえましたね。みんなと会えて、そこで本当に生きていてよかったなと感じました。怪我した場所も場所だったんで、下手したら死んでいた可能性もあったと思いますし。
その場でチームメートには感謝の気持ちを伝えましたし、戻らないといけないという思いが強くなりましたね」
今はまだ筋肉にこわばりが残っている状態だという。痛いとか冷たい・熱いとかは感じるが、首と上半身の感覚がまだ鈍い。
「手は手袋をしているような鈍い感覚で、体も1枚服を着ている感覚ですね。あとは走るとかの動きになると、勝手に筋肉が強張ってしまって、なかなかうまくスムーズに動き出せない状態ではあります」
「今は毎日何が正解かわからないんですけど、まずもっとできることをやっていくことですね。リハビリもまだまだやり続けていかなくてはいけません。今チームの新しいシーズンが始まって、自分自身に何ができるかなって考えた時に、僕自身センターなので、センターの子たちと一緒に頑張ろうとビデオとか見て助言したりしてあげています」
「コーチングの興味も出てきたんで、今後の人生の中でそれも選択肢の一つとして取り組んでいけたらなとも思います。
一番は、チームにいい影響を与え続けたいと考えています。僕自身、この怪我をしてよかったなって思えるような経験にしたいですし、この経験があったからこそ、自分自身がもっともっと強くなれた、もっと成長できたなって思える経験したいと思っています。
このチームに携わる限りは復帰を目指しますし、その中で自分自身にできることを探し続けて、チームが優勝を目指せるような取り組みをしていけたらなと思います」
いま濱野は、この大怪我の経験さえ「ラグビーからもらった、宝もの」に変えようとしている。完全復帰まではもう少し時間がかかるかもしれませんが、どうぞ濱野大輔選手に大きな声援をお願いします!!
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