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ラグビーの国に生まれ育って。 LO / ジェイコブ スキーン

ラグビー王国として名高いニュージーランド。国土は日本の3/4程度の面積だが、人口は日本の1/25程度の約513万人しかいない。ちなみに千葉県の人口が、627万人程である。通称スキーノこと、ジェイコブ スキーン選手は、そのニュージーランドの小さな街で生まれ育った。ラグビーの大好きな少年が、夢を叶えてプロラグビー選手になり、5年前に縁あって日本にやってきた。彼の人生そのもののような、スキーン選手のラグビーライフを遡ってみよう。

小さなビーチのある、小さな街に生まれ育って

「僕は、ニュージーランドで生まれ育ちました。ニュージーランドでは、どんな子供でも生まれた時からラグビーを応援しています。フィティアンガ(Whitianga)という街で育ったのですが、そこはワイカトというエリアの中にある、小さなビーチがある小さな街でした」

物心ついた時から、テレビでオールブラックスの試合を見るのが大好きだった。それと、住んでいたエリアのワイカトチームとチーフス(※南半球で展開するインターナショナル・プロラグビーリーグ『スーパーラグビー』の強豪チーム)のファンだった。

「4歳の時にラグビーを始めたのですが、ニュージーランドでは4歳からラグビーを始めるのが普通なんです。ラグビーを実際に始めてから、もっともっとラグビーが好きになりました。週末に友だちと一緒に練習したり試合に出ることが、とにかく大好きでした」

ラグビーの、15人対15人の大人数でぶつかり合いをするところが、子供心にも好きだった。今もラグビーのフィジカルなところが好きだ。

「今ラグビーが自分の仕事であり、好きなことをして生活できているということは、とても特別なことだと感じています。僕の家族もスポーツが大好きで、お父さん、お祖父さん、いとこたち、みんなラグビーをしながら育っていった家族です」

冬はラグビーをやり、夏になると街の小さなビーチでサーフィンを使ったライフセービング、人命救助をやっていた。

「高校に入るまで、ローカルのクラブチームに入っていました。年齢とか学年によって、いくつものチームがあるという形ですね」

ラグビー名門高校に進み、寮生活を送る

高校は、日本でもラグビー名門高校として名が通っている『ハミルトンボーイズハイスクール』に進み、寮生活を送りながらラグビーを続けた。
 
「もっともっとラグビーをやっていきたいと思ったので、この高校を選びました。小さな街のローカルチームに所属するということは、やっぱり機会が制限されてしまいます。生まれ育った小さな街から、ハミルトンボーイズのある大きな街に引っ越しをすることは、僕にとって大きな変化でした。同時に、家族の元を離れて寮に住むということも、僕にとって大きな転換期だったと思います」
 
スキーン選手にとって、ハミルトンボーイズハイスクールに入ることによって、ラグビーを更に追求することができたし、その先に他のチームでプレーするチャンスも得ることができた。
 
「生徒数が2,500人ぐらいいたのですが、ハミルトンに住んで通っている生徒がほとんどなんですね。遠いところから来ている生徒200人ぐらいが寮に住んでいました」
 
この寮に入ることができる生徒は、ラグビーか他のスポーツで高いレベルを認められた少年たちに限られていた。ちなみに生徒のレベルに合わせた130以上もの運動部がある。そして、まず寮に入るための審査があった。

地元にいた時に参加した、ワイカトエリアのU-15カテゴリーキャンプを、ハミルトンボーイズの関係者に見てもらったことが、高校の審査に合格することにつながった。

「この高校に入れたことは、僕にとって非常に幸運でした。ブロディ(※ブロディ・マクカラン選手)は、一学年下ですが同じ高校に通っていて同じ寮に住んでいました」

「子供の頃から、入っていたラグビーチームでは常に一番背が高かったです。ポジションは、いつもロックでした。僕のラグビー人生は、ずっとロックです(笑)」

「 足も早かったので、10歳か11歳の時に1シーズンだけウィングをやったことがあります。でも、ウィングはあまり好きではありませんでした。なぜかといえば、サイドで立ったままの時間が長かったので、真ん中でもっとボールに絡んだ動きがある方がいいなって思いました」
 
ハミルトンボーイズではラグビーをやる生徒の数が多かったので、ラグビーチームだけで20個以上もあった。そして、トップレベルでは5段階にチーム分けされていた。
 
「この『1st 15』から『5th 15』までのチームは、皆一つでも上のグレードに上がりたいと本気でやっている選手たちのチームです。それ以外にも、楽しみというか、趣味としてラグビーをやってる生徒たちもいて、その子たちは年齢別チームのリーグに所属してラグビーを楽しんでいました。その年齢別リーグでも各年代ごとに数チームあったので、多分スクール全体では20個以上のチームがあったと思います」
 
小さな街のクラブチームからハイレベルな高校に入ったことは、スキーン選手にとって大きな変化だった。だが、1年目は『1st 15』チームに入れずに、『3rd 15』チームに入っていた。
 
「この『3rd 15』チームに入った時に、今まで小さな街でやってきたラグビーとはレベルが違うなと感じました。2年生と3年生の時には、『1st 15』チームに入ることができました」
 
 「ただ、僕にとって『3rd 15』チームに入ったことは、すごくポジティブな経験だったと思います。やっぱりハードワークが必要だということを理解できたこと、そして何をしなければいけないのかを理解させてくれたという意味で、すごくポジティブに捉えています」
 
「『1st 15』チームでの2年間の経験は、次のレベルに行くために、僕にとってはすごく大きな助けをしてくれました。今は他の学校もだいぶレベルが上がってきて、いろんなプログラムをやるようになったらしいですが、私が高校に入るタイミングでこの学校のプログラムは素晴らしいものだったと思います」
 
『1st 15』チームでは週に7、8回練習があったが、当時は他の学校で週に7、8回も練習するチームは無かった。
 
「今は、幾つかの学校はプロみたいな形になってきているので、そういう学校もあるように聞いていますが、そうすることによって、高校のレベルからセミプロまたはプロに行くトランジションがすごくスムーズになっているように感じました」

そして、子供の頃からの夢だったワイカト・トップチームに入る

高校卒業後は、ワイカト大学のラグビーチームに入った。また、その中でセレクトされた選手たちの一人として、ワイカト州のU-20アカデミーでも活動した。

「僕たちの学年では、ワイカトのトップチームに入るために切磋琢磨していくメンバーとして十数人がセレクトされました。昼は大学のチームで練習をして、夕方からはアカデミーに集まって練習をしていました」

大学でラグビーを続けながらワイカト州U-20アカデミーでも2年間を過ごした後、幼い頃からファンであり、選手になることを夢見ていたワイカト・トップチームに選出された。

「子供の頃からワイカト・トップチームを応援してきたし、お母さんがワイカト・トップチームの試合に連れていってくれたりすることもあったので、僕にとっては非常に大きな達成感がありました」

本当に夢が叶ったと言っても過言ではないぐらい、スキーン選手にとって、ワイカト・トップチームに入れたことは大きな出来事だった。

「ワイカト・トップチームに入ってからも、大学は続けていました。ワイカト・トップチームでの2年目の年には、チーフスに怪我人が出た時のバックアップという形で、時々参加していました」

トップチーム下にあるディベロップメントメンバーとして、トレーニングの補助をしていたが、チーフスのメンバーとして試合に出る機会は得られなかった。

だが、そのディベロップメンバーとして2、3試合出場したパフォーマンスを評価されて、2015-16シーズンのマオリ・オールブラックスに選出された。

怪我によって自分のキャリアを見直し、リコーに入団

2016年のマオリ・オールブラックス活動中に、首の神経を怪我してしまった。首の神経が潰れてしまい、6ヶ月練習ができなかったのだ。

2017年には試合に復帰することができたが、ワイカトでプレーをしていた時に、また首の怪我を負ってしまった。それと高校時代から脳震盪を何回かやっていることも、気にはなっていた。

24歳になった翌2018年に、そのまま自分のラグビーキャリアを継続するのが自分にとってベストな選択なのか、今引退すべきなのか、考え直した。そういう状況でエージェントと話をする中で、海外に行く選択肢もあるのではというアドバイスも受けて、スキーン選手の中では、海外であれば日本がリストの一番上に上がった。

「なぜかと言うと、ハミルトンボーイズハイスクールにいた時に、高校代表の試合で2回日本に行っているんですね。また、ワイカト大学時代にも、ニュージーランド大学生選抜チームで日本に行って試合をしたことがあります。ですから、合計3回、日本に行ったことがあったんですね。

その経験から日本が好きになっていましたし、2019年には日本開催のラグビーワールドカップがあり、日本ではこれからラグビーが盛り上がっていくこともわかっていましたので、日本からのオファーを期待していたところ、リコーからのオファーがありました。即決して、2週間後には日本にいました(笑)」

「今振り返れば、ラグビーに関してやって良かったと思う大きな決断が二つあります。一つ目がハミルトンボーイズハイスクールに入ったこと、二つ目が日本に来たことです。この二つの大きな決断をしたことは、僕にとってものすごくハッピーな結果になり、その決断をして良かったなといつも思っています。また、そういったチャンスをもらえたことを幸運だったと思っています」

日本のラグビー、リコーのラグビーについて

世田谷にあるリコーラグビー部のホームグラウンドに来てみると、東京の都心部にも近いし、川もあるし、駅も近いし、美しい街で非常に素晴らしい環境だと感じた。そしてラグビーの面では、この5年間に日本のラグビーやブラックラムズが大きな成長を遂げたことを実感している。

「リコーの練習に参加した当初、ラインアウトのサインコールをするために、1から10までの数字をとにかく日本語ですぐに覚えなさいとコーチから言われて、「うわーっ!」となりました(笑)。それで、練習後に数字を日本語で言えるように学んだのを覚えています」

「元々日本のラグビーは、例えばキャッチだったり、パスだったり、タックルだったりとかスキルのレベルは高いけれども、戦術的な部分が弱いと言われていたと思います。たけど、僕が日本に来て5年の間に、戦術的な部分も急激に伸びていると感じています」

「戦術的な部分というのは、キックゲームだったり、試合中に選手自身が目の前の状況を見ながら自分で戦術を決められるかという部分です。それに、フィジカル面も高くなってきていますね」

「2022-23シーズンを迎える前には、チームのDNAについてなど、チームのファンダメンタルなことをたくさん話してきました。チームに入った頃もそういう話はありましたが、今は本当にその部分を大事にしていることを感じます」

スキーン選手は、ニュージーランドと日本における、ファンのサポートの仕方の違いに関して、どう感じているのだろう。

「日本のラグビーファンはすごくユニークだと思います。ユニークという意味は、すごく献身的っていうことですね。他の国にはいないんじゃないかなと思います」

「ニュージーランドではもちろんラグビーファンもたくさんいて、ラグビーのことをすごく楽しんでいる国民性です。違いを言うと、例えば日本だとビジターゲームで遠い場所での試合になったとしても、いつも試合を観に来てくれるファンたちがわざわざ飛行機に乗ってでも応援に来てくれます。そういったことは、ニュージーランドではありません。

スタジアムの近くに住んでいる人たちが試合を観に行くという感じで、いつもどの試合にも観に来てくれるということはありませんね。そういった意味で、非常にユニークで献身的だというふうに感じています」

2022-23シーズンで特に印象に残っている試合として、2023年4月16日開催の第15節、トヨタヴェルブリッツ戦を挙げてくれた。

「11,000人もの観客が、雨の中スタンドを埋めてくれました。僕は怪我をしていて出場することはできなかったのですが、そこまでたくさんの人が来てくれたことは、やっぱりうれしかったですね。素晴らしい雰囲気でした。勝てはしなかったのですが、観に来てくれた人たちの中から、新しいラグビーファンやブラックラムズファンが、多分生まれたんじゃないかなと思います」

この先のラグビーライフ

「このチームが決勝に行く瞬間の一員になりたいと思っています。そして、僕は自分のラグビーキャリアが終わる最後の最後まで、ブラックラムズ東京にいたいと思っています。
 
やっぱりこのチームでファイナルに行って勝つっていうことをやりたいと思います。僕がいるこの5年間でも、すごくポテンシャルを感じるチームです。ただ、そのポテンシャルを全部使い切ることができていないのが今のチームの状況であり、ポテンシャルを出し切ることができれば、本当にどのチームにも勝てると信じています。
 
どのシーズンが始まる前にも、僕はワクワクするんです。来シーズンこそ、そのポテンシャルを使い切ることができるシーズンになるんじゃないかとワクワクします。
 
ブラックラムズ東京として僕たちのポテンシャルを全部使い切ること、それが僕の唯一の目標です」

ラグビー王国ニュージーランドの小さな街で生まれ育った少年が、縁あって訪れた日本のブラックラムズ東京で、自身のラグビーライフをALL OUTしてくれている。

どうぞ皆さん、スキーノを応援してください。

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