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イナズマイレブンGOギャラクシー感想 相反する2つを内包するキャプテンから支配を切り離して、宇宙における支配の歴史を終わらせること

TLにギャラクシーは最高という旨のツイートが流れてきて、GO2は自分の中でもかなり評価してる作品なので、せっかくなら続きを見ようという事で、今回ギャラクシーを視聴しました。20話くらいまでは見た記憶があったので宇宙編であるそれ以降を今回追うことになりました。
正直予選編を見たのがかなり前で記憶が薄れていて間違ってる部分もあるかとは思いますが、あまり気にしないでもらえると幸いです。
また自分の解釈に過ぎないので、は?となってもほーんおもろいやんけぐらいで流してください。



・イナズマイレブン無印からGOへ向けて

無印は個人的、属人的な問題についてフォーカスしています。
故に大介から守へのメッセージは円堂守に成れという非常に個人に属したメッセージです。
三部作をかけてまた同じことを繰り返しても作品的意義は見込みにくいでしょう。よってGOシリーズでは種、宇宙といった一段階レイヤーを上げた問題について踏み込んでいくことになります。
それに伴い、個人間同士の問題から、より繋がりのある全体的な問題へと波及することになります。
舞台設定についても、それに乗じてディストピア的サッカー世界、時空や宇宙といった拡大された舞台へと変動します。実は、この舞台が変動していくことが、イナズマイレブンGOにおけるテーマでの設定を維持することに、重要な役割を果たしています。

舞台が移動するごとに、全員を連れて行くことは出来ないので、物語からパージされるものが現れます。この問題を無印では消化しきることが出来ず、ダークエンペラーズや、世界編において新キャラが2人だけでエイリア編のキャラを続投、パージされた染岡を復帰させるなど、救済措置が多く、努力や仲間といったことを強調させざるを得ませんでした。
しかしGOシリーズでは、それを逆に生かして才能の壁を描くことや、3において多様性を描くことに成功し、果てはそれを非常に高次元の宇宙問題へと昇華しています。この時点ですげえんだよな
無印で試みられたが消化しきるには至らなかった要素がGOには盛り込まれています。下記に綴っていくこともそのうちの一つとなります。



イナズマイレブンGOシリーズでは支配と自由について書かれてきました。
以下、「淘汰VS共生」≒「支配(管理)VS自由」という感じの対立構造の視点で読んでもらえると分かりやすいかと思います。

・GO1の支配と自由

GO1では管理サッカーVS自由サッカーという2軸で描かれます。
ラスボスである千宮司は、過去にサッカーをプレイする権利を自身の環境によって奪われ、誰でもサッカーが出来るという自由を、管理という対極の存在を用いて配ろうとします。
内に矛盾を秘めたこの構造は、勿論自由からかけ離れており、新しく登場した自由の風の象徴である松風天馬によって、この矛盾を解消する物語が始まります。

・GO1の共生と淘汰

このシリーズにおける淘汰はフィフスセクターの存在です。
八百長で既に定められた勝者によって恣意的に選ばれる選挙システムと、反抗する者への制裁システムは独裁的であり、逆らうものを淘汰する動きとして作用します。

・旧体制のメタファー、GO1における神童拓人について

彼の使う必殺タクティクス、神のタクトは、実は管理の側面を含んでいます。プレイヤーを操り導くことは、彼にその気が無くても支配し管理する要素を含んでしまっているのです。
そしてこの問題はGO2のラグナロクにおいて顕現してしまいます。

ご存じの通り、最終戦に神童は出ることが出来ません。
ドラゴンリンクとの一戦は、GOを通したサッカーと共生や自由をどう扱うべきかについて決める一戦であり、神童は本質的に管理側であり、彼を排除して自由と多様性の受容の化身である天馬がキャプテンとなって、管理サッカーを打ち倒すことでイナズマイレブンGOという物語は始まるのです。

・自由の責任について

物事には必ず作用と反作用があります。自由は一見良い事だけのように思えますが、その裏には自由の責任が伴うのです。

新たにキャプテンとなった松風天馬には、キャプテンとしての責任としての要素が付加され、GO2における彼のキャプテン像には、新たに自由の反作用となる管理が付与されてしまうのです。

そしてこれはキャプテン像だけの問題ではなく、物語そのものにも波及しています。
自由なサッカーを守ること、サッカーをする自由を守る事の責任は以下のように各シリーズに表現されています。

GO1シリーズにおいては、フィフスセクターに刃向かう事は、サッカー部存続の危機、ひいては学校存続の危機にまで波及しており、彼らの身近な処でも神童の葛藤、円堂の離脱といった事で表現されています。

GO2においては、正に象徴的なのがセカンドステージチルドレンです。
現在においてサッカーを取り戻すことは、それがそのまま未来の危機に繋がることを意味し、実際にそれではサッカーを守ったことにならないと登場人物達も言及するほどです。

そしてGO3においては、恐らくサッカーは星そのものを指しています。
天馬が葛藤を抱くのは、自分の星を守ることで、逆に他の星の人達の未来を潰してしまうという負の側面についてです。

・GO2の管理と自由

言うまでもなくエルドラドによるサッカー禁止令と、それに対抗する時空最強イレブンです。(時空の移動も自由の体現と言えるかも?)

・GO2の共生と淘汰

淘汰については分かりやすく旧人類VS新人類という対立構造が存在するセカンドステージチルドレンです。
共生は各時代を回って、自分たちの文化や時代と異なる価値観を持つことを己の中にミキシマックスする事です。実際にトーブとかを仲間にすることもそうですね。

・GO2における神童拓人

織田信長とのミキシマックスは、統率者としての役割は全うされないことのメタファーとも読み取りました。(くっそこじつけ)(天下統一できないよー)

GOシリーズの管理するキャプテンは既にラグナロクにおいて通用しなくなっています。
異文化異時代かつ、強烈な個をもつプロトコルチームのキャプテン達は、神童の普遍的な管理の範疇に収まることはありません。

よって神童はガンマ、ベータ、アルファという個に寄り添った、言わば共生的管理へと向かうことで、神のタクトから神のタクトFIという進化と成長を行います。

・GO2における松風天馬のキャプテン像

これはそのままGO3最終戦まで引き継がれますが、GO2における天馬のキャプテン像は、他者に寄り添い、一緒に前へ進んでいくことです。アーサー王との出会いは、彼に操る統率者としてのキャプテンではなく、共生的なキャプテン像を自覚させました。
しかし、これも実際には天馬にとっての問題点であり、ギャラクシーイレブンのキャプテンとしては、不適格だという事が後に瞬木によって指摘されることになります。その問題点についてはGO3で記述します。

・GO2の解答

SARUたちに勝つために、実はフェイとザナークというセカンドステージチルドレン側の力を用いています。そのため彼らに勝つことは、彼らの存在否定をそのままは意味しません。内に取り込んだうえで、共に先へ進むという共生の形なのです。(実際には無力化して一緒に生きる道を選んではいるが)

ここまでGO1,2と遡り、ようやく本題のギャラクシーです。


・GO3の予選から読み取ること

正直若干つまらなさを帯びてる記憶がありますが、それはこのイナズマイレブンGOのテーマについて知ってもらえた後なら、結構観察に値するポイントがいくつか出てくると思います。

アースイレブンとして集められたのは、本当にサッカーをやったことない素人たちです。これがどういう状態かというと無印で世界編になったら円堂豪炎寺鬼道以外が全員飛鷹だということです。それは流石まずいからあんだけ売れてたらできるわけがねえ

お前が誰だ


少し無印に触れると、逆に飛鷹の存在は、イナズマイレブンにおける多様性と共生の問題に着手し始めていることを表しています。実際鬼道が素人入れるくらいならシャドウたちの方が…と言及しています。


サッカーに全く関係のない、別の世界からの来訪者である新しい8人に対する天馬剣城神童の対応によって、逆説的にこれから彼らが出会う宇宙の人たちに対するスタンスが透けることになります。予選編ではここに注目するのが一番面白いと思います。
例えばこの8人ですら受け入れられない人物が、宇宙の消えゆく惑星の人々を救うと主張しても、あまりにも正当性がありません。

天馬は基本受け入れるような姿勢を取りますが、対する神童は非常に懐疑的なスタンスです。剣城はその間くらいか。

アースイレブンは、ある環境に多様性が入り混じった生き物同士の関係性のメタファーであり、共生の象徴として描かれることになります。

よってGO3では、8人を許容する包容力を持った天馬こそが、宇宙を救うこと=共生のカギとなる要素についてカトラから打ち明けられるのです。

・GO3における共生と淘汰

共生はアースイレブン、そしてギャラクシーイレブン、そして最終話です。
淘汰はまさに惑星をかけた生き残り宇宙サッカー戦争を指しています。

・GO3の支配と自由

支配はオズロックの思想と、後述しますがアースイレブンのキャプテンという役割そのものです。
自由は、それを開放することになります。

・グランドセレスタ・ギャラクシー本戦

まず名前かっこよすぎだろ 中二病すぎて最高 盛り抜きにGOシリーズの魅力の一つはこのSF感だと思ってるので名前は大事だ

描写として面白いのが、味方側でなく、相手チームに思想と主義の対立があることです。ファラムオービアスの使者と、惑星の人々の思想主義は基本異なっていて、共生の難しさをそこに描き出しています。(バカ兄弟は馬鹿なので思想主義がなく、故に対立も起こりません) 一方喧嘩こそすれどアースイレブンは多様性共生の体現なので思想主義の対立はありません。
そこに対比が生まれるのが非常に面白いです。

・GO3における神童拓人

惑星ガードンの長老の、宇宙を救ってくれるのだろう?という託しの言葉に対して顔を背けるあたりが、宇宙を救うという天馬を信じると口では言っているが、信じ切るところまではいっていないのが、ギャラクシーの神童を表すにあたり非常に細かい描写です。(予選での描写で形成される像との一致)
他作品のポジションを借りると、天馬=ナルト 神童=シカマルがそれっぽいです。
天馬が自由という理想の体現に進むなら、神童はそれに伴い必ず発生する理想と現実のギャップを解決するための参謀として天馬を支えるポジションといったところです。

・GO3における剣城京介

GO2において、ミキシマックス先となった沖田総司(イナズマイレブンGO2内の登場人物)は、新選組として幕末における政府側の体勢についていますが、彼本人にとって、どの体勢に就くかということは、核となる部分ではありません。
守るべきものを守ることに殉ずる、という自分の内にある思想こそが、彼(イナGO2)の本質といえます。
剣城もその点において非常に似た人物です。
彼は最初、兄を助けるためフィクスセクターのシードとして送り込まれ、
守るべきものが、兄との約束に変わった時に雷門へと所属します。
そして今回ファラムオービアスの一員として登場する剣城は、同様に守るべきもの(自らの星)が(宇宙の惑星全体)へと変化しています。
この属するものに縛られない剣城の性質は、問題の内的解決を図ることを試みる天馬と神童に対比されるものです。
彼らが内側からものを見るのであれば、剣城はそれに縛られずに俯瞰した外側の視点から問題にアプローチするという役割を持つ重要人物になります。そしてこの性質は、最終戦において天馬達と全力でぶつかるという、彼らの思考の範囲の外から問題の解決へとアプローチすることに成功しています。

・アースイレブンの異質な人物、西園信助

彼はアースイレブンの中で、唯一ソウルを持ちません。それはなぜでしょうか。
ソウルを持つものしか、アースイレブンになれないという体制は、多様性の体現であるアースイレブンの明確な矛盾点です。
故に西園信助は、アースイレブンにおいて、ソウルが無いという個性として包括されるべき存在なのです。
あとキーパーが一人は流石にやばい。

多様性の強みはいかなる環境に対しても適応できる可能性がある事です(現実の世界でも)。
例えばソウルを持つ者へ特攻した能力を持った敵が現れた場合、全員がソウル持ちでは絶滅してしまう。そういった状況に対するリスク管理としても、ソウル無しのメンバーを取り込むことは理にかなっています。この問題は最終戦におけるベルセルクレイで顕著になります。
(この文章書いた時はまだ火山の惑星ぐらいだったのに、いざ最終戦でその状況来た!と思ったら特にこの考えは活かされてなかった)

また物語のレイヤーの上昇によって熾烈になる競争に対して、イナズマイレブンGOシリーズでは、化身やミキシマックス、ソウルといったギミック、選挙活動やセカンドステージチルドレン遺伝子といった要素を用いて、無印時代に信仰される努力主義を、本人が変えることのできない潜在能力の壁を描写することで、元の位まで戻すことを試みました。
無論ギャラクシーにおいても、ソウルによって、それは表現されますが、宇宙に旅立った後は、その全員が選び抜かれた側の存在であるために、その壁を描写する手段に乏しいです。
多様性の表現のため、物語からパージされた初期メンバー達と、アースイレブンとの間にある壁を描くため、宇宙戦における才能を持たぬ人物としての役割も彼は担わされています。(これは結構如実)
 
じゃあ信介じゃなくて三国でもよくね?と仰る方もいるかもしれない。
天馬剣城神童三国の絵面が見たいか?ちなみに俺は見たい。
なんと言っても彼の化身は護星神だからね、登場させんわけにはいかんでしょ

・実はアースイレブンは真の多様性と共生ではない。

ここまでアースイレブンは多様性の象徴と称してきましたが、実はそれはある意味で確かで、ある意味では確かでありません。
あくまで、地球規模のサッカーの視点で捉えるのであれば、構成員が地球人のアースイレブンは多様性の象徴です。
しかし、宇宙規模の視点で捉えるのであれば、アースイレブンには宇宙人がいないため、多様性の象徴ではありません。
今の彼らにとって、救うのは地球だけではなく、宇宙そのものです。
故にイクサルフリートとの最終戦では、それが宇宙を包括したギャラクシーイレブンへと進化することになります(それが何を意味するかは言うまでもありません)。

・最終戦のソロプレイとギャラクシーイレブンのふさわしいキャプテン像、それが宇宙を支配の歴史から解放することについて

天馬のキャプテン像は他者に寄り添う共生型だと述べました。
天馬は基本的に他人を抱擁していますが、それ故に他人に拘束されているともいえます。
結局個に寄り添い抱擁する管理では、神童と同じで真の自由の形として適しません。
この点を瞬木に指摘されることになります。
そこで天馬は、各個にフォーカスするのではなく、突き放して巻き込んで内包する形で導くという解決を図ります。

それは多様性がただ主張し合う無秩序という意味ではなく、私の敬愛する作品である攻殻機動隊の荒巻課長の言葉を借りるのであれば、
「我々の間には、チームプレーなどという都合のよい言い訳は存在せん。有るとすればスタンドプレーから生じる、チームワークだけだ。」
という発想にかなり近いのではないかと思います。
嵐・竜巻・ハリケーンは、周りを巻き込み内包して進んでいく、天馬が到達するギャラクシーイレブンのキャプテンの形の具現化として印象的です。

そしてそれが宇宙を支配することの歴史から解き放つことへと繋がります。
オズロックの星は、支配されることで滅びを迎えました。
共生と多様性の体現であるギャラクシーイレブンのキャプテンとしての形の中に、支配としての要素が残った状態で勝利しても、それは真の支配からの解放、自由とは言えないのです。
天馬がギャラクシーイレブンの個への管理から解放され、真の自由なる共生を手にして勝利したことで、宇宙は救われることになりました。

イナズマイレブンGOシリーズは、この自由と共生を追い求めながら、相反する支配=キャプテンに対して、松風天馬が前作とは比べ物にならないほど、様々な文化、立場の人たちに触れることで回答を出して、ギャラクシーイレブンのキャプテンとなるための物語と言えるでしょう。



気づいたら6867字も書いてました 当時GO2をプレイしていた時やアニメを見ていた時にはこんなことは思ってもいませんでしたが、なんとか言語化することが出来て良かったです。

イナズマイレブンGOシリーズは本当に素晴らしい作品でした。ありがとうございました。マジで感謝


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