ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 を観ました
映画をやるとのことでせっかくだし見てみるかということで見始めました
劇場版を見に行くために1話も見てないアニメ本編を見始めるという逆転現象を今年これで三度もしていて、随分自分の中の価値基準も変わったなーと驚いています
ちなみにラブライブ自体はニジガクが初めての視聴です
えいがさきについては記憶がぶっ飛んでしまったので配信されたときにでも 見る前は1時間で1.8k均一は高くない?と思ったけどめっちゃ良かったです
・スクールアイドルって?
まずアイドルもの自体を自分が見たことが無くて(プリパラは?)、その中でスクールアイドルってアイドルとは何が違うんだろうってことが最初に気になっていました。
これに関しては、1期を見終わった後にμ'sを6話ぐらいまで見て、結構言及されてたのでなんとなく自分の中に落とし込めた気がします。
アイドルがアイドルにオールインするのであれば、スクールアイドルは、むしろアイドルにオールインしないことこそが特徴なんだなと。
全員がプロのアイドルだと、例えば6話段階だと医学部の進路を決められている真姫とか、適性だなんだで揺れ動く栞子の話って描けないと思うんですよ。
良い意味での活動のハードルの低さがあるからこそ、特有の話をアイドルと絡めて描写できるのが良い点なのかなと。
・個人に焦点を当てることで生じる問題と解決
で、1期なのですが、ニジガクは他シリーズと違って(?)ソロアイドルという形を取っていて、それ故か8話ぐらいまでは個人ないし、二人に焦点を当てた話で1話構成が成されています。
各人が抱える悩みや問題を解決してライブへと昇華する流れは、ソロアイドル故の丁寧な描写で良かったです。
ただこれも個人的にはある種の問題を抱えると思っていて、1話1話の質は良くても、シリーズ通しての一体感を持たせるのが難しいんですよね。
例えばりなりー回の後にしずく回を持ってきて、しずくの悩み(本当の自分を出せないこと)に対して、同じような悩みを持っていたが、解答を導き出したりなりーが解決に協力するといった感じにすると、話と話の繋がりが見えてきて満足感が得られます(実際この2話は演出等含めてめっちゃ良かった)
この問題に関しては、侑の変化を通して解消していました。
1話で歩夢が夢を持ったことで、スクールアイドルとしての歩夢のアイデンティティは成り立ったように見えます。それ対比される侑はそんな歩夢を応援するというポジションになるわけですが、スクールアイドル同好会の中で、アイドルではない侑が自分のアイデンティティに悩むという展開は、視聴者側に取っても予想しやすい展開です。
それぞれが自分の中に合った問題を解消して、他を照らす輝きを放ち、それを受けた侑が自分の夢を見つけ出すという展開は、1話1話を侑の変化へと繋げることに成功していて、それ故にシリーズとしてのまとまりに満足感があります。
しかも侑が変化すると、侑のスクールアイドルでいたいというある意味脆いアイデンティティで活動していた歩夢のアイデンティティが崩れかけるという予想外の作りにもなっていました。
実際にスクールアイドルとして活動するうちに、本人も自覚することなく変化していた自身のスクールアイドル像に気づかされて再生される歩夢を描く12話は、EDの歌詞ともダブってマジで良い。。。。
実際歩夢の変化って意図的に隠されてるのかと思うぐらいあんまり描写されてなくて、我々視聴者側もそれを認識できていなかったと思うんですよね。
・夢見て憧れて また夢が見たいんだ
主人公の名前にも入ってて、EDのサビを飾る夢という単語はニジガクの一つのキーワードなのかなと思っていて、アイドルが夢を見せる存在であること、学生という身分であることからこの先の目標のこと、もう一つソロアイドルだから強調して描ける部分が「夢見て憧れてまた夢が見たい」って部分だと思うんですよね。
誰かを見た自分が夢を見てそれを実現する→それを見た誰かがまた夢を見て…という夢の連鎖が起こせて、連鎖というのは、複数の個の要素が必要になるわけです。それを表現するのに集団だけどソロという形の虹ヶ咲はかなり適してるように思えます。実際侑や歩夢はそれの体現者なわけです。
シーズン2
・ソロアイドルの相対化
2期になると新しいキャラクターとして栞子とランジュとミアが出てきます。
ランジュの最初のキャラとしては、同好会とは対を成すような形で出てくるわけですけど、彼女の言ってる事にもある種の説得力があって、自然な形で同好会に振り返らせるのが良い。
孤高のランジュに対して、同好会はユニットを新しく組み始めることになります。
ソロアイドルという形を取っている同好会は、アイドルとして成長するにあたって、どうしても避けられない障壁があります。
それがソロ故に自己の相対化手段に乏しいという点でした。
りなりー提案のお泊り会でこの辺は結構わかりやすく伝えられていて、ユニットを組むことで、人から見た新しい自分を認識できるようになるわけです。
栞子やランジュ、ミアの抱えてた葛藤もこの相対化が欠けていたことが原因で生じていたものでした。
栞子は理性で自分の気持ちを押し殺していました。自分で自分を結論付けてしまっていたため、自己解決するのは非常に厳しい状態にありました。(もしかしたら優れた適性自体もあるかもしれないという視点にも至っていない)
ランジュはそもそも相対化が行えない環境に居ましたし、故に孤高に進むしかありませんでした。
ミアはテイラー家という枠に縛られていました。りなりーがミアちゃん自身の曲を聴きたいという、テイラー家ではなく自分自身に振り返らせたことで縛りから解放されました。
彼女たちは誰かの存在によって新しい自分を見つけることが出来ました。
ソロゆえに生じる問題だけど、一人じゃなくて同好会という集団だから解決することが出来るってのも虹ヶ咲味を感じて良かったです。
・りなちゃんボード解除
りなちゃんボード故障で素顔のままライブするというシーンが最終話にあります。
ニジガク2期の感想でキャラ描写が1期よりも薄いって批評が結構見受けられて、このりなちゃんボード解除もその一つに挙げられていました。
ただ自分はそうは思ってなくて、これもアイドル相対化の副産物だと思っています。
りなちゃんボードは、今のりなりー自身が他者に対して感情を伝えられているかがわからないという点がネックになり考案されたものです。これはりなりー自身の主観であり、実際愛さんはボード無しりなりーの感情の機微に1期で気づいています。
つまり他者の視点から見た時に、りなちゃんボードの必要性は絶対ではなく、りなりー自身がどう思っているかが重要という事です。
2期の軸の一つであるソロアイドル相対化は、りなりー自身に、主観ではなく、今の他者の視点から見た時に自身はどう見えているかという視点を与えており、その結果ボードを外してライブを行うということに不安を覚えなくてもそこまで違和感はないかなというのが自分の考えです。
ただりなりー自身は観客を楽しませたいと思っているでしょうし、そのための手段として感情表現があった方が良いとも思ってるでしょうから、りなちゃんボード自体が不必要になったというわけでもないと思います。
最後の侑の台詞、次は貴方の番!についてもなんか書きてーと思ったのですが、他者が抱いてる違和感を初見で俺は覚えなかったため、自分の中に言語化する素がなく、上手く言葉にできませんでした
流れとしては侑に喋らせるのが余りにも自然だし、夢見て憧れての終着点がこの台詞になるのも個人的には全く違和感がないです。(必要かどうかは別として)
ただ違和感を感じなかったことそのものの言語化は出来るかもと思って、考えた結果俺は夢を見させられていたんじゃねえかということになりました(????)
虹ヶ咲が視聴者に見せる世界観って意図的に現実味を薄くしてるのかなと思っていて、例えばμ'sは完敗スタートで幕を開けるわけですが、これは廃校という現実的な問題の制約がかかっているからこうせざるを得なかったと思うわけです。
対し虹ヶ咲にはそのような問題はないため、彼女らの抱える問題は彼女ら自身という非常に狭い枠の世界で描写されるわけです。問題の解決=夢の実現に現実のハードルを設けないことで、現実の制約を抱える自分側にもそれを外させたかのように錯覚したかもしれません。(俺はHUNTER×HUNTERの世界観で、ゴン=フリークスに次は貴方の番といわれても、無理です(現実チャンネル)となります。)
曲とかライブの内容とかについて全く書いてなかったけどめっちゃ良い 全曲強すぎん?
正味ソロアイドルという形態を取っている以上、感想を書くなら1話ごとに注目したほうが良いんだと思う、2周目があったら1話ずつ書くか…