大内氏と菅原道真と祟りとの関係 - 2074文字
菅原道真怨霊伝説
抄録
応仁の乱(細川家と山名家との戦い)で、4年後(1472年)両家(細川家・山名家)で話し合い、和議が始まるが、赤松家に止められる。
3月 細川勝元は、実子に責任転嫁
5月 山名宗全は、自殺を図るも制止され、長男・政豊に責任転嫁
1473年1月 山名家最重鎮・山名教之が謎の死
1473年3月18日 山名宗全病死(後追い自殺ではなく)
1473年5月11日 細川勝元死去
一方で、大内軍・大内政弘(西軍)
は、4年前(1468年)に、7カ国の兵士1万人、水軍2万艘を率いて西軍に参加したが、1476年に第七代征夷大将軍足利義政に和睦を求められ、1年後、大内政弘が正式に降参し、西軍敗北
昌泰の変と藤原氏の権力争い
昌泰の変(898年)は、平安時代中期に発生した政治的事件で、藤原北家の内部抗争とその影響が絡んだものです。この事件は菅原道真の左遷と密接に関連しています。
藤原北家と南家
藤原北家(ふじわらほっけ):
• 祖: 藤原房前(ふじわらのふささき)
• 主要人物: 藤原良房、藤原基経、藤原道長、藤原頼通
• 特徴: 摂関政治を通じて天皇を補佐し、政治の中枢を握る
藤原南家(ふじわらなんけ):
• 祖: 藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)
• 主要人物: 藤原仲麻呂、藤原乙牟漏
• 特徴: 特定の時期や人物に依存した権力行使
菅原道真(すがわらのみちざね)
生涯と業績:
• 学者・政治家として活躍し、右大臣に昇進
• 宇多天皇の信任を受けて政界で台頭
昌泰の変と左遷:
• 藤原時平(ふじわらのときひら)との対立が激化
• 時平が道真が天皇を呪詛したという虚偽の情報を広め、道真を大宰府に左遷
• 大宰府で失意のうちに亡くなる
宇多天皇(うだてんのう)
在位期間: 887年 - 897年
特徴:
• 藤原氏の影響を受けず、自ら政治を行おうとした
• 菅原道真を重用し、彼を右大臣に任じる
• 宇多天皇は寛平9年(897年)に皇太子敦仁親王(後の醍醐天皇)に譲位し、31歳の若さで退位
• 退位後、昌泰2年(899年)に小室仁和寺で出家し、法皇となる
多々良正恒(たたらまさつね)と大内正恒(おおうちまさつね)
多々良正恒:
• 菅原道真の側近であり、彼の右腕として活動
• 道真の左遷後もその名誉回復に努め、後に周防に帰り、妙見信仰を広めた
大内正恒:
• 多々良正恒の別名、もしくは同一人物の異名とされる
• 妙見様の力を頂き、宇多天皇から「大内」の姓を賜った。
• 大内の姓は、大内裏(だいだいり)から来ており、宇多天皇の御陵がある大内山と関連している。 - 天降陽神(別名・伊弉諾尊・長女)から、太陽の橙色から来ていると思われる。 - 先代舊事本紀より
角川サイバー問題と神代(クマシロ)
大内氏関連リンク
以上