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紗織
そうか、今日は新月か。
やっと家の周りの雪が溶けたばかりのまだ肌寒いこの時節に、紗織はカラカラと窓を開け、お風呂上がりの熱った体を冷風にさらした。
いつもは、天高く登った三日月や満月がぼんやりと辺りを見回せる程度に照らすのだが、闇夜の今日は月明かりもなく、すぐそこにある庭先から聞こえる、自分の存在を私に教えるかのようにガサガサと葉を揺らしている野良猫の姿もまた、見ることは叶わなかった。
久しぶりに定時で帰宅し、いつもはシャワーだけのカラスの行水なのに、時間があるからと湯を張った。お風呂にパックと携帯を持ち込み、湯船から腕と顔だけ出してすでにアプリで購入済の漫画を読み始めると、顔に貼ったパックがカラカラに乾くまで読み耽り、お風呂を上がる頃には真っ赤な茹で蛸になっていた。
今日は珍しく定時で上がれた。にも関わらず、あまり良い気分ではなかった。
朝から激しい頭痛と吐き気に襲われ、単純な雑誌の校正に修正が掛かったり、提出した書類に不備があったり、入力ミスや伝達ミスの多発など、あまりにも酷い惨状だった。
それだけではない。
頭を切り替えようと入れたコーヒーが実は、上司が大事に取っておいたドリップパックで、お湯を注ごうとしたら過ってカップを落としてしまい、それが一点物のお気に入りともすれば、片付けやらお説教やらで切り替えるどころが更に気が滅入るのも必然なわけで.…。
挙句には同僚に、「今日はうちらに任せてさ!」と気を遣わせ、残りの今日のノルマを半ば強制で取り上げられ定時上がりを押し切られる始末。
明日、助けてもらった同僚に茶菓子を差し入れなければな、と帰路をお菓子処経由にルートチェンジし、お目当ての焼き菓子を調達後、定時上がりにはいつも寄る居酒屋はもちろん、自分のノルマを負ってくれた同僚への罪悪感で、とても寄る気にはなれず、大人しく1DKのアパートへ戻った。
そもそも、二日酔いと昨日の【出来事】で、それどころではなかった。
⁑
「ごめん。別れよう。」
机の下で震える手を摩りながら、落ち着いた雰囲気を装って「なんで?」と聞いた。
「紗織はさ、すごくしっかりしてるじゃん。俺が追いつけないくらいにさ。」
3歳年下の彼は、私に目を合わせずに言った。
「いくら業績をあげても、プレゼントを渡しても、愛してるって言っても、紗織はいつもその先を行く。あまりにも達観しててさ、なんとか追いつこうとしたけど、俺、辛くなってきちゃって。」
「俺、もう疲れちゃったよ…。」
だから浮気したと。
よりによって私より8歳も若い新入社員に手を出したと。
この3年間、お互い支えあってきたし、弱いところも見せてきたし、未来の話もしてきた。
たくさん話し合って、たくさん喧嘩して、たくさん笑い合ってきたその裏で、彼はずっと傷ついていたと言うのか。それに気づかない私に隠れて、別の女の肩にもたれたというのか。
それからの会話は覚えていない。
ただ、新入社員に彼氏を盗られたとて別れ際に駄々をこねられるほど、社会経験や理性が培われていないわけではない。
「そう。ごめんね、辛い思いさせちゃったね。ごめんね。彼女と幸せにね。支えてあげるのよ。今度はあなたが年上なんだからね。幸せにね。」
その後は行きつけのバーで泣くわ騒ぐわ吐くわのオンパレードだった。
その翌日が今日である。
二日酔いもフラれたショックも相まって、出勤時は酷い顔だった。
自覚している。
だから、優しい同僚に有難くお世話になろうと思ったわけで。
⁑
春の夜風で随分と冷え切った体を、それでももっと冷やそうと、冷蔵庫に冷えていたほうじ茶をお気に入りのグラスに注ぎ、乾いた喉に流し込む。
コップの半分も飲み切らないうちに冷たさで喉が限界だと受け付けなくなり、煽っていたコップを置き、口に残ったそれを無理やり嚥下した。
寝室へ戻った紗織は、窓に向かって垂直に置かれているデスクの椅子に座り、普段は携帯の充電とデータのバックアップ、それとレンタルしてきたCDから音楽を移行するためにしか使わないパソコンを開き、携帯を繋いだ。
繋がれた携帯を認識したパソコンは勝手に写真フォルダを開き新しいデータを移行し始めた。数分もしないうちに作業が終わったフォルダのデータを、そのまま過去に遡るように見ていく。
「 」
ある写真で矢印キーを押す手が止まった。
付き合って初めて体を赦した日に、彼が撮った寝顔の私と笑顔の彼のツーショット。
いつの間にか溢れ出していた涙が、一層溢れ出して止まらない。
なんで。
なんで。
なんで。
…どうして、って言葉は新入社員には使っちゃいけないんだっけ。
あたしの方が年上だったのがいけなかったのか、
とか、
なんでよりによって私と正反対の子を、
とか、
昨日まで見せてた笑顔は無理やり作ってたの、
とか、、、
考えないようにしていた想いが、悔しさが、悲しさが、切なさが、
どうしようもなく、目から零れ落ちる。
甘え上手な新入社員を新しい彼女に選んだ彼もまた、私が知る限りとても甘えん坊だった。それでもそれが可愛くて、慰め、励まし、背中を押してきた。何度も。何度も。
きっと彼と彼女は続かない。
甘えたな彼を甘えさせられるほど彼女に余裕など、あってたまるものか。
…分かってる。
負け惜しみだ。
彼は盗られたのではない。
彼と一緒に生きていくための【何か】が、
私に無かったのだ。
その【何か】が何なのかなんて分からない。
それでも、私は彼女に負けたのだ。
いや、そもそも、勝ち負けの問題ではない。
【何か】とは、個性だ。
彼は、私の前より素直になれる彼女に惹かれた。
ただ、
それだけのことなのだ。
心の奥に詰まっていた何かが、ポロッと取れた気がした。
大丈夫。
いつか、
私と一緒に生きていける人と幸せになろう。
眩しい陽光が部屋の中を照らし、新しい「今日」が始まったことを知らせた。
久しぶりに徹夜したな、と、ふと思った。
フォルダ内にある写真の中から彼が写っているものを選択し、ゴミ箱マークを押す。
昨夜見えなかった庭は、何かを祝福するかのように朝露を纏った葉を輝かせた。
昨日いたであろう野良猫はもういない。
濡れた落ち葉を鮮やかに照らした朝日は少しづつ優しい陽光へと移り変わっていく。
もう、涙は止まっていた。
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