プリキュアを語るためには、どこから語ればいいのか―とりあえず、月野うさぎ・夢原のぞみ・野々はなから考えてみる
ある中年が、プリキュアシリーズにハマってしまった。
ふと、セーラームーンシリーズを見返してみたくなってしまって、それが面白かったのをきっかけに、『レイアース』や『ウェディングピーチ』なども観たりして、プリキュアシリーズも『ひろプリ』から観るようになって、初代から順に観てみたら……。
本記事では、ある中年を突き動かしたプリキュアシリーズについて、とりあえず、月野うさぎ・夢原のぞみ・野々はなを基点に考えてみる。
”魔法少女” × ”戦隊”=セーラームーンシリーズであることは、制作関係者や評論家等々含め、大方が共有できる解釈であると思う。
’90年代アニメシリーズにおけるセーラームーンは特に、時代劇・東映特撮など、現代ヒーロー的(もしくはそのパロディ的)な演出・構成が色濃い。
ヘンテコな前口上からの決め台詞・決めポーズ、謎の組織、およそ1クールごとに入れ替わる敵幹部、終盤の敵味方入れ乱れの内紛劇……。
これらは、その後の ”戦うヒロイン” 作品においてもおおよそ、踏襲されており、プリキュアシリーズにおいても然りである。
一方、プリキュアシリーズは、初代の制作に『ドラゴンボール』や『エアマスター』のアニメスタッフが参加していることから、少年バトル漫画に例えられたり、比較されたりもする。戦闘シーンの描写においては、そこからの踏襲であるといえる。
また、パルクールやXMAなど、同時代のアクション映画の動向にも呼応しており、主役の初変身時・追加戦士の登場時・クライマックスシーンなどにアクション映画的な細かい手数の立ち回りやリアルな武術技が描かれたりもする。
これらのように、プリキュアシリーズには様々な要素が組み合わさっており、シリーズを経るにつれてその要素も広がっており、また観る人によって上記以外の要素も加わっているであろう解釈も可能であるといえる。
とりあえず、比較対象をセーラームーンシリーズに絞り、キャラクターは月野うさぎ・夢原のぞみ・野々はなを中心に据えて、考えてみる。
’04年『ふたりはプリキュア』は、セーラームーンシリーズなど従前の ”戦うヒロイン” とは差別化される方針で始まっていく。
性を想起させる描写は抑えられ、戦闘は徒手空拳中心、ヒロイックでスポ根的な描写が随所に観られ、”見た目は少女アニメ、中身は少年漫画” と評されるほどにストイックなヒロインアニメとして打ち出され、それが大ヒットしていく。
’05年『MH』を経ての ’06年『SS』でキャラクターや舞台が変更され、主役・世界観が交代する形式となっていく。
『SS』まで二人体制だったのが、’07年『5』にて5人体制となり、以降、3人以上の構成をとるものが多くなっていく(『MH』はシャイニールミナスがプリキュアとして定義されたことから、のちに3人体制の定義となるが)。
また『5』から加わった構成・設定として、”月野うさぎ” のようなドジっ子だけど誰とでも仲良くなれるキャラ= ”夢原のぞみ” が中心にいるということ、プリキュアに変身できる条件として ”明確な自分の意志” があるということ、が挙げられる。
『SS』まではスポーツ万能タイプと頭脳明晰タイプの対称的なキャラクターが偶々、妖精たちと邂逅して彼らを助けようとした流れでプリキュアになるといった形だった。
『5』において、セーラームーンの要素が加わりつつ、”運命” と ”自分の意志” という点で、差別化をより明確にするようになっている。これは以降のシリーズにおいても散見される。
以下にプリキュアシリーズの作品の分類例を示す。
プリキュアシリーズの分類例(独断)
バディ型:初期レギュラーがふたり、キャラクターが対称的に描かれやすい→初代、SS、ハープリ、スイプリ、まほプリ、スタプリ、ひろプリ
奇数型:初期レギュラーが奇数、セーラームーンと比較しやすい、月野うさぎタイプがセンターに立つ傾向→5、フレプリ、スマプリ、ハピプリ、Goプリ、キラプリ、はぐプリ、ヒープリ、トロプリ、デパプリ
戦隊ヒーロー型:ドキプリ
長期化するヒロイン作品において、夢原のぞみ=月野うさぎのような、特技はないが敵味方問わず仲良くなってしまう、いわばコミュ力(りょく)おばけがいるのはなぜなのだろうか?
戦争・冷戦を背景とし、悪を ”倒す” ことを描く仮面ライダーやゴレンジャーと違い、冷戦終結後かつ経済成長もピークを越えた後のセーラームーンにおいては、記号化されたよくわからないものと向き合い、”浄化する” ことが描かれる。プリキュアも然り。
頼れるリーダーを中心に据えることが多いスーパー戦隊シリーズが、西洋的な統合論理に基づく英雄を描いている作品群であるなら、セーラームーンやプリキュアシリーズは、日本的な均衡論理による中空的英雄を描いている作品群である、といえるのではないだろうか?
古くを辿れば、記紀神話におけるアマテラス(スサノオや大国主のように国造りに関わる具体的な功績がない点で)、中国三大演義における劉備・宋江・三蔵など、特に秀でた才能や功績はないが、なぜか人徳に富む、といった ”無の人” を中心に据える構造自体は、東アジアを中心に、神話・伝承などにおいて語られてきている。
明確な善悪が布かれている状況下に必要となるのは有能なリーダーであるのに対し、”何が正しいのか” わからない状況においては ”無の人” が必要である、といえるということだろうか?
’91年『セーラームーン』にて月野うさぎが、’07年『5』にて夢原のぞみが登場したのは、その時代に須らく必要とすべきだったということだろうか?
一方、『セーラームーン』と『5』の相違点として、『セーラームーン』では”前世からの運命” によって戦士になったのに対し、『プリキュア5』においては ”明確な自分の意志” が伴わないと、プリキュアにはなれないという所。
また、『セーラームーン』では、”運命” だったということを知ることによって、うさぎを除く4人が孤立から救われる描写があること、『プリキュア5』では、のぞみを除く4人は、学校でも ”華” のような存在として描かれている(うららは当初は孤立していたが)といった点での違いがある(初代~『SS』のメイン二人も ”華” として扱われている)。
以降のプリキュアシリーズでも、『5』のような構成をとるものが多い。
クラスの ”隅” にスポットが当てられにくくなっているとも捉えられ、ニチアサの時間帯ゆえの踏み込みにくさといえるか。
平成の終わりかつシリーズ15年目である ’18年『はぐプリ』において、主役・野々はなを通じて、『5』以降の設定・構成への批判がなされていく。
『はぐプリ』自体、”男らしさ・女らしさ”、”AIロボットと人間性”、”男子プリキュアの登場”、”プリキュア=ヒーロー” など、様々なトピックが組み込まれており、設定の矛盾などが指摘されていたりもするが、シリーズ中で最も挑戦的な作品であったともいえる。
野々はなのストーリーラインにおいては、”いじめ” の問題に踏み込んでおり、それを通じた ”月野うさぎタイプの再定義” がなされていると思われる。
中盤で、はなが転校前の学校で、同級生がいじめられていた所を止めに入ったのをきっかけに、無視や嫌がらせに遭うようになってしまい、ついには家に閉じこもるようになってしまう経緯が、その同級生との再会によって明らかになる。
性格面では月野うさぎタイプのキャラクターが、クラスの ”中心” から ”隅” へ追いやられてしまう、当たり前のように受け入れられていたキャラクターへのカウンターを入れてきているといえる。
序盤においてはなは、ちょっとした躓きで落ち込んでしまう、自己肯定感の低すぎる面を見せていたが、その所以が中盤で明らかになり、『はぐプリ』の軸のひとつに、野々はな=月野うさぎタイプの再定義のストーリーがあったことが窺え、クラスの ”隅” へのスポットを当てた、シリーズ中でも稀有な作品になったともいえる。
『はぐプリ』以降の主人公キュアに関して、月野うさぎタイプがいなくなり、初期の頃のスポーツ万能タイプが多くなっていく。
コミュ力が高い点では共通しているが、能力面でも付加されており、”無の人” ではなくなってきているといえる。
以下に、主人公の分類例を示す。
主人公キュアをセーラームーンのキャラクターを基準とした分類例。
月野うさぎタイプ(ドジっ子、人情家、大器晩成)
のぞみ、ラブ、みゆき、めぐみ、はるか、いちか、はな
愛野美奈子タイプ(おっちょこちょい、何らかの秀でた才能)
スポーツ系 なぎさ、咲、響、マナ、みらい、まなつ、ゆい、ソラ
ミーハー系 ひかる
水野亜美タイプ(おっとり、しっかり者、学才)
つぼみ、のどか
セーラームーンの当初の構想は、『セーラーV』の続編として愛野美奈子を中心に展開していくものだった。
運動が得意で勉強が苦手、猪突猛進でお転婆、アイドルへの憧れを持っているなど、愛野美奈子に見られる特徴は、バディ型の作品のキュアに多く見られ、近年の主人公キュアもこの傾向にある。
そのセーラーVに憧れる女の子、月野うさぎを主人公として、『セーラームーン』は展開していく。勉強も運動も苦手、ドジで泣き虫、人一倍、情に厚く、誰とでも仲良くなれる、月野うさぎタイプは、奇数型のセンターとしてほぼ定位置にあったが、近年ではそれが見られなくなってきている。
ストーリー開始当初は空っぽで始まりながら、作品テーマに沿って成長していく過程を描きつつ、「こいつがいないと始まらない」というセリフが定番のごとく入ってくる、常に中心にいる存在を描き続けてきたのが奇数型の作品でもあった。
『はぐプリ』を境に、主人公キュアは愛野美奈子タイプに遷移していき、月野うさぎタイプはサイドもしくは、各キャラの要素として分散していく。
また、はぐプリ以降の主人公キュアの特徴の変遷として、はな→試練、ひかる→旅立ち、のどか→復活・帰還、まなつ→来訪、ゆい→英雄化、ソラ→英雄宣言、といった傾向が窺える。
『はぐプリ』を境に、中空的中心からの脱却傾向が観られ、主人公キュアの特徴が英雄神話の過程を描いているようにも見える(?)
平成初期~中期~終期と月野うさぎのような ”無の人” が求められていたヒロイン作品は、令和以降、明確な ”何か” と向き合っていくことになるであろうことを予見している、ということが考えられるのだろうか?
以上、月野うさぎ・夢原のぞみ・野々はなからプリキュアシリーズについて考えてみたが、ヒロイン作品に対して、月野うさぎのような ”無の人” がいるということがどこか自分の中で思い込みになっていることに改めて気づいた。プリキュアにおいても『5』以降からそれが自明となっていた。
『はぐプリ』においてそれが見直され、ヒロイズム偏向に舵が切られ、”ヒーロー” ”ヒロイン” の差がなくなってきているような……(?) 気がしている。
”倒す” ”浄化する” の違いは依然と続いているが、『ひろプリ』でのキュアスカイのダークプリキュア化、現行の『わんぷり』でのキュアニャミーの、”まゆを守るため” という名分の下での容赦ない攻撃の描写など、相手を ”倒す” 描写がいずれ表されることへの布石が、なくはないともいえる?
そんな、どこか ”ヒーロー” らしい側面に魅かれてもいつつ、シリーズを追うごとにセーラームーンのような ”ヒロイン” らしい側面も残っていてほしい、なんてことを思ったりしながら、今後のシリーズの展開を楽しみにしてしまっている、ある中年。