身体と記号化
最近、プリキュアにハマってる。
おじさんだからこそ観られるのかもしれない(?)
最近、思っているのが、女児向け作品、特にプリキュアシリーズが、「東映」テレビシリーズにおける王道的「ヒーロー」が引き継がれている、のではないかということ。
『山田玲司のヤングサンデー』では、日本の「ヒーロー」ものの原点は、石ノ森作品と定義している。
無論、デザイン・文芸面において重要な要素ではあるとは思うが、『仮面ライダー』をはじめとする、諸々の「ヒーロー」ものの、そもそもの多くの企画の発起は「東映」によるものである。
(『ヤングサンデー』でもそこは踏まえてる)
「東映」による映像表現、特に「身体」表現による印象付けが、構成要素として重要な位置を占めているのではないだろうか。
「ヒーロー」ものがヒットし、継承されてきた大きな要因は、変身「ポーズ」にあるといえる。
歌舞伎・時代劇における「見得」に相当するものであり、日本のエンタメの構成要素として深く根強く植え付けられたものが、変身「ポーズ」によって現代フィクションに再現され、子供たちに深く印象づけたといえる。
変身「ポーズ」が生まれたきっかけは、藤岡弘、の怪我により、2号ライダーの設定が追加され、佐々木剛が撮影当初、二輪免許を持っていなかったことにより、バイクでスピードを上げてライダーに変身するという演出が
できなかったことによる。
「東映」という集合知によって、頻発するアクシデントを乗り越える策として考案されたものが、「ヒーロー」ものが現在までに続くきっかけを作った、といえる。(厳密にいえば、大野剣友会か)
それは『セーラームーン』やプリキュアシリーズにもつながっている。
テレビシリーズの『セーラームーン』は、前口上、ポーズ、決め台詞と、時代劇がかった演出が色濃く、敵組織も幹部が節目ごと入れ替わったり、また内紛も起きたりと、特撮ヒーローっぽい感じ。これらも「東映」が反映されているといえる。
ただ、『無印』編で描かれた全員、死んでしまう展開が、石ノ森作品や伝統的な英雄神話における悲劇性を帯びたものとなっている。
のちのシリーズもいずれかのキャラの悲劇が描かれている。
また、同一キャラクターが主人公であり、年齢も経ているため、必然的に区切りをつけなければならない。
その後の展開としてはスピンオフ、リメイクといった形になる。
(『おジャ魔女どれみ』も同じ)
プリキュアにおいては、時代劇~特撮~『セーラームーン』の「ヒーロー」ものの伝統、『おジャ魔女どれみ』に描かれた、学校生活の問題などに向き合ったキャラクターたちの日々の成長などが組み合わさったものであるといえ、英雄神話的な悲劇性はあまりない(?)
対立軸も「光」「闇」など、ざっくりで記号的。
アクションが香港アクションっぽく、「身体」表現へのこだわりはありながら、何と戦っているかに意味はなく、自己成長の部分が要点だったり(?)特に『ひろプリ』は成長のためであるとしてスポコン的なトレーニングを課していたり、「身体」をキーとしているといえる。
長く愛される痛快活劇に重要なのは、「見得」をはじめとする「身体」表現による印象付けであり、かつ悲劇性をあまり入れない、対立も記号化されていること、なのではないだろうか。
石ノ森作品のような悲劇性の強い、かつ意味が込められすぎている作風は、
途切れやすい傾向にあるといえる(?)
(平成ライダーも『電王』辺りから表面的には悲劇性は薄まり、戦隊も’90年代の実験期、’22年の『ドンブラザーズ』のような作品はありながら、王道へと回帰していっている)
平成ライダー初期や『BLACK SUN』、『ドンブラザーズ』などの男児向け作品の文芸面に納得がいかない昭和「ヒーロー」好きは、プリキュアシリーズにシフトした方がいいのかもしれない。
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