「頭が良い」とは?
おはこんばんにちは。初っ端からフルスロットルで回していきます。
はじめに
「あの人、頭いいよね」
日常の文脈の中のあらゆるコンテキストからこの言葉は投げかけられます。しかしその意味はコンテキストによって異なり、「ほーん」と口では発しながらも頭の中では高確率で(どういう意味?)とよく感じています。そんな疑問を感じる機会がここのところよくあったので現在の自分の思考を整理して一旦雑にここに記し、「頭の良さ」という概念について思索を巡らせてみることにします。
第一章:「頭の良さ」という万華鏡
見る角度によって変わる像
「頭が良い」という評価は、まるで万華鏡のようです。覗く角度によって、全く異なる模様が見えてくる。
ある人にとっては「素早く状況を理解できる能力」である処理能力のことを指し、
別の人にとっては「深く考え抜ける能力」である思考能力のことを指し、
また違う人にとっては「広く知識を持ち関連付けられる能力」である記憶統合能力のことを指します。
この多義性は、私たちの認識している世界の広さを示している一方でその実、私たちの認知の限界を示しているのではないでしょうか。私たちは「頭の良さ」という言葉で、異なる現象を同じ箱の中に押し込め、互いに意思疎通をしていると思っているだけであり、無意識の中で齟齬を生み続けているのかもしれません。
時代と共に変わる「頭の良さ」
さらに興味深いのは、この概念が現代においては成長とともに変容していくという点です。
幼少期から高等教育までの間に求められる「頭の良さ」は
暗記力や同じ課題に対しての再現力
既存の枠組みの中での問題解決能力
莫大な課題に対する処理能力
といったものでした。
しかし高等教育から先の大学教育(研究機関といったほうが正しいか)や社会組織に於いては、
新しい価値の創造力
異なる分野の知識の統合力
曖昧さへの臨機応変な対応力
対人関係の構築能力
といったものが偏重重視されています。
これは「頭の良さ」という概念自体が、社会での階級レベルの要請に応じて変化することを示唆しています。つまり、この概念は人生というものにあたり絶対的なものではなく、極めて相対的なものであるということがおわかりいただけるかと思います。
第二章:本質を求めて
「わかる」とはどういうことか
俗に「頭が良い」人の特徴として、「物事をすぐに理解できる」ということが挙げられます。しかし、この場合においての「わかる」とは一体どういうことなのでしょうか。
例えば、天空の城ラピュタのムスカ大佐がラピュタの心臓部である石碑を見た際に言った言葉として
「わかる……わかるぞ……!!!!」
というものがあります。私が考えるに、ここでの「わかる」とは:
各単語が指す意味と内包する概念について理解ができる
その繋がりから何を指しているのか理解できる。
全体像が理解できる。
その中の各問題が持つ意味を理解出来る。
それを簡潔に言語化できる
という複合的なプロセスを内包したものなのではないでしょうか。
思考の「速さ」という幻想
しばしば「頭の良さ」は「理解や判断の速さ」と結びつけられます。しかし、これもまた一つの幻想なのかもしれません。
確かに、ある種の問題、特に社会の多くの状況で見られる成果主義を前提とした場面においては、素早い即時での判断、即座の理解が重要とされます。それは事実です。しかし、:
その判断に必要な経験が既に蓄積されている
判断のプロセスが既に確立されている
結果の予測が比較的容易である
という条件が揃っている場合に限られるのではないでしょうか。
逆に、本当に重要な判断、本質的な理解には、速さではなくむしろ「遅さ」が必要とされているのかもしれません。ゆっくりと考えを検討し、それぞれを深く掘り下げ、多角的に検討し、統合する。そういった「遅い」思考のプロセスが、その物事や概念に対する真の理解をもたらすのではないでしょうか。
第三章:思考の質を探る
「本質」を見抜くということ
「本質を見抜く力」。これもまた「頭の良さ」の重要な要素として多く語られます。しかし、「本質を見抜く」とは一体具体的にどういうことを指しているのでしょうか。
私は以下のような要素があると考えています:
ノイズの除去
表面的な現象から本質的な部分を選別する
重要でない情報を適切に取捨選択しフィルタリングする
真に相関のある要素を見極める
パターンの認識
異なる事象の中に共通する要素を見出す
表面的には異なる現象の底に流れる共通の原理を見抜く
新しい状況を既知の状況と結びつける
文脈の理解
個々の事象を全体像の中の適切な位置に配置する
現在の状況が過去から未来の一連の流れの中でどこに位置するのかを理解する
現在の選択や行動によって起こり得る未来への影響を予測する
これらの要素を体系的に網羅すること、つまるところ、何が根底となって事物が繋がり、相関しているのかを理解することが「本質を見抜く」と言われることの意味なのではないでしょうか。
「つなげる」という知性
「1を聞いて10を知る」という表現があります。文面をそのまま受け取るならばこれはただ1を用いて推論を行っているだけのように聞こえますが、大抵の場合適切な選択をすることをも内包しており、その点を踏まえると、これは単なる推論能力以上の何かを示唆しているように思えます。
それは:
異なる文脈の知識を結びつける力
表面的には無関係な事象の間に関連性を見出す力
断片的な情報から全体像を構築する力
といったものではないでしょうか。
しかし、ここで注意すべきは、この「つなげる」という行為が必ずしも「正しい」とは限らないということです。時として、私たちは誤った関連付けを行い、それが新たな問題を生む原因となることもあります。1を聞いて10を知る。適切に運用することが出来ればこれ以上ないほどの武器となる反面、運用を誤れば自らを傷つけてしまい、その後も使い物にならなくなる両刃で諸刃の剣なのかもしれません。自身の推論能力を過信せず情報収集を怠らないようにすることがこれを回避する術であるように感じます。
第四章:成長という視点
「固定的能力」という誤解
「頭の良さ」という曖昧なものを生来の固定的な能力と考えることは、大きな誤りかもしれません。
若干話がそれますが、心理学において、1963年にレイモンド・キャッテルが唱えたある理論があります。
一般知能 = 流動性知能 + 結晶性知能
というものです。流動性知能とは抽象的な推論問題を解決する能力のことを指します。具体例をあげると暗記力、計算力、直感力といったものです。まあ俗に言う「頭が良い」とはこの知能のことを指しているように感じられるかと思います。それに対して結晶性知能とは洞察力、理解力、批判や創造の能力といったもののことを指し、成長とともに獲得していくもののことを指します。つまり知能には2種類のものがあり、後者に関しては個体の成長とともに上昇していくものだと考えることができます(厳密には異なりますがそれは置いておきます)。
そう、この理論から得られる見解としては「頭の良さ」は生来から決まっている固定されたものではなく、総体としては恣意的に上昇させることが可能であるということです。前者の流動性知能が低いからと言って諦める理由にはなりません。後者の結晶性知能を以て流動性知能を補うように適切な努力をしたならば、総合的な知能も部分的な知能も意図的に上昇させることが出来ると言うことです。「センス」といった言葉に惑わされてはなりません。それは後天的に得ることが出来るということです。これらから得ることが出来る考察として重要なのは:
新しい視点を受け入れる柔軟性
失敗から学ぶ謙虚さ
継続的に思考を深め、知識を集める粘り強さ
ではないでしょうか。
第五章:実践知としての再考
「知る」と「できる」の間
理論的な理解と実践的な適用の間には、常に大きな溝があります。現実においてもよく「頭が良い」とされる人が、必ずしも優れた成果を出せるとは限らないという場面がそれなりに見られます。多く言われるのが「東大生なのに仕事ができないのな」「高学歴なのにこんな事もできないのか?」。これは何を意味しているのでしょうか。(普通に嫌味かもしれんけど)
おそらく:
理解の深さと実行力は別物である
文脈に応じた適用能力が必要
コミュニケーションを通じた協働が不可欠
といった要素が関係しているのではないでしょうか。
コミュニケーションという要素
「頭の良さ」は、一般的には個人の能力として語られます。しかし、現実においては、その能力を用いて作り出したものを何らかの手段を用いて他者に伝え、共有し、協働につなげる必要があります。
つまり:
自分の理解、解釈を他者に伝える力
他者の視点を取り入れる力
共通認識を構築する力
も、実は「頭の良さ」を構成する重要な要素なのかもしれません。まあ僕はこれが根回しのように感じて嫌いなのですが。僕はその意味では「頭が悪い」のでしょうね。
第六章:「評価」という罠
測れないものを測ろうとする矛盾
そもそも「頭の良さ」を評価しようとする試み自体に、深い矛盾が潜んでいるように思えます。私たちは、本質的には計測不可能なものを、何とかして数値化し、序列化しようとしている。これは現代社会が抱える一つの病理なのかもしれません。
例えば:
IQテストは知性の一側面しか測れない
学歴は学習能力の一部を示すに過ぎない
業績は環境要因に大きく左右される
それにもかかわらず、私たちはこれらの指標に依存し続け、他者と比べ一喜一憂を繰り返します。なぜでしょうか。
おそらく、それは:
評価の容易さ、単純さを求める社会的要請
数値化による安心感への欲求
比較可能性への執着
といった要因が相互に絡み合っているのでしょう。
「できる」と「できない」の境界線
さらに興味深いのは、「できる」と「できない」の境界が極めて曖昧だという点です。
同じ人が:
ある状況では驚くほど優れた思考を見せ
別の状況では驚くほど凡庸な判断をし
さらに別の状況では驚くほど簡単なミスをする
このような現象は、私たちの日常でよく目にするかと思います。
これは「頭の良さ」という概念が、実は:
状況依存的
文脈依存的
関係依存的
な性質を持っていることを示唆しています。
第七章:新しい「知性」の可能性
「集合知」という視点
個人の「頭の良さ」を超えて、より重要なのは「集合知」なのかもしれません。
現代社会において、真に重要な問題解決は:
多様な視点の統合
異なる専門性の結合
複数の知性の協働
によってなされることが多いと考えられます。
これは「頭の良さ」という概念自体の再考を迫るものではないでしょうか。現代社会においては過去の「頭の良さ」として定義された個人の圧倒的卓越性ではなく、「他者との協働能力」の方が本質的な「頭の良さ」となっているのかもしれません。
結論:「頭の良さ」
私たちは過去の「頭の良さ」という古い概念から離れ、より豊かな「知」の可能性を探求すべき時期に来ているのかもしれません。
それは:
より包括的で
より関係的で
より創発的な
知性の理解へと向かうこととなるでしょう。
実践への示唆
この考察から、実践的な示唆として:
評価の文脈では
固定的な能力評価を避ける
成長可能性に注目する
他者との協働能力を重視する
育成の文脈では
多様な経験の機会を提供する
失敗を学びの機会として捉える
双方向的な学習を重視する
組織の文脈では
多様性を積極的に活用する
創発的な場を設計する
継続的な学習を支援する
といった点が重要になってくるでしょう。知らんけど。
終わりに:新しい問いとともに
この考察を終えるにあたり、新たな問いが浮かび上がってきます:
私たちは本当に「頭の良さ」を理解しているのだろうか
評価という行為自体の意味は何なのか
これからの時代に求められる「頭の良さ」とは何か
これらの問いは、さらなる思索への誘いとなるでしょう。
そして最後に、冒頭の疑問に立ち返るなら、それは単なる概念の曖昧さへの不満ではなく、より本質的な「頭の良さ」というものを理解することの渇望だったのかもしれません。
まあよくわかんねえな、ハハハということです。
なのでこれからその文節を使用した人にこう聞いてみることにします。
「その「頭の良さ」ってどういう意味で使ってますか?」
きっと建設的な回答が返って来るに違いない。
ではまた。