堕ちていく。そして自分に出会い、自分を救う
人はポジティブなことよりもネガティブな情報に反応しやすい。心理学では通説になっていることだが、自分でも思い当たることがあるだろう。たとえば、10回褒められた言葉を投げかけられるよりも、1回の批判の方が心に残ってしまったりする。成功よりも失敗の体験を忘れることができない。こうした反応は、自分を危険から守ための察知能力であるとも言われている。
理論だけでなく、人は本質的にこのことを知っているので、ニュースはバットニュースを放送するし、SNSでも、注目を集めるために「逆張り」の意見を発信する人が多い。
逆張りよりも、さらに深淵なのは、「堕ちる」と言うことであろう。
太宰治は、『人間失格』で、「恥の多い生涯を送って来ました」と書き、三島由紀夫は「個性などというものは、はじめは醜い、ぶざまな恰好をしているものだ。」と言った。西村賢太は、北町貫太というキャラクターを作り、自分の「堕ちる様」を書いた。
人が堕ちる様は、人を引きつける。堕ちるとは、本来いる場所から離れると言うことだ。そして、その離れ方は下に向かう。下とは、下がることでなく、下位に甘んじることでもなく、自分の本質に迫るということであると思う。だから、坂口安吾は『堕落論』で、「人は正しく墜ちる道を堕ちきることが必要なのだ。(中略)。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない」と書いた。
僕は常々、堕ちたいと願ってきた人間である。落ちたいというのは、失敗したいとかダメな人生を歩みたいということではない。自分の本質に迫りたいと思っていたということだ。そこには誰にでも言えないこともあろうから、秘密を共有するのであれば人は特定される。人を特定するには、少なくとも「堕ちる」という概念を理解できる人でないといけない。
このような話をしたら(しないけど)、「難しいことはわからない」「本は読まない」という人がほとんどで、必然的に僕の人間関係は表面的なものになっていく。
もし、堕ちるという表現が抽象的すぎて、暗い響きを持つものだとしたら、堕ちるとは、「本音の本音を言えて、そのように接することができる」ということになろうか。
僕が堕ちようとしているからと言って、その様を誰かれなく言っていいということではない。人が堕ちる様など聞きたくない人は多いし、墜ちたくても堕ちられない人にも聞きたくない話となる。酒を飲むと、判断が鈍り、僕は「下品」「変人」「節操がない」と言われることもしばしばあった。まさに、堕ちる様である。
表現とは、自分の様を見せることで、堕ちる様は人に注目を引きやすい。意図して堕ちる様を表現することが芸事であり、自分を客体として堕ちる様を書くことができれば、それは文学作品と呼ばれるのだ。
僕が堕ちたいと願い理由は、自己の再生が目的ではない。僕は、文学作品を世に残したいのだ。