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誤解だらけの成功法則

人間というのは、自分に都合のいいように解釈をするようにできているとも思います。

たとえば、「今日が人生最後の日だったら何をするのか?」という偉人の言葉に影響を受けて、「そうだな。自分が本当にやりたいことをして生きないとダメだな」と言いながら、明日も生きる前提で行きたくない会社に向かうというような話ですね。もちろん、そのうちに、そんなことは忘れてしまいます。

他にも間違った解釈というのは多くあります。

「情けは人の為ならず」とは、「人に親切にすれば、その相手のためになるだけでなく、やがてはよい報いとなって自分に戻ってくる」という意味です。

しかし、誤って、「親切にするのはその人のためにならない」と捉えている人少なくありません。

文化庁が発表した「国語に関する世論調査」では、約半数が逆の理解をしていたというデータがあります。
http://www.bunka.go.jp/pr/publish/bunkachou_geppou/2012_03/series_08/series_08.html

日本人の約半数が、「人に情けをかけるのはその人にためにはならない」と考えているのですから、社会が殺伐としても仕方がないのかもしれません。


「なぜ、善人よりも悪人なのか?」

ほかにも「なぜ、善人よりも悪人なのか?」という問いがあります。

これは、『歎異抄をひらく』(高森 顕徹 1万年堂出版 2008年)の広告に使われているコピーです。これだけを読むと、善人よりも悪人のほうがいいと連想できます。

本書によると「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という有名な一文について、「阿弥陀さまは、悪人大好き仏だから、悪をするほどよいのだ」と吹聴する者が現れたとあります。

普通に考えれば、阿弥陀さまが悪事をすすめるわけはないと思うのですが、阿弥陀さまが喜ぶから(自分が喜ぶだけですけど)、すすんで悪事をする人がいたというのは驚きです。

では、「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」とはどういう意味でしょう。

本書の解説によると『歎異抄』でいう悪人とは、阿弥陀仏に悪人と見抜かれた人のことを言います。

人は誰でも煩悩を持っているのだから、悪人とは人類のことを指します。善人とは、善に励めば救われると考えるような奢った人のことを言います。つまり、阿弥陀さまは奢った人(悪人)ですら救うのだから、自らの煩悩に気づいた人が救われないことはないというのが正しい解釈です。


本当に、今のままの自分でいいか?

他にも、「あなたはオンリーワンの存在です」という言葉も、「今のままの自分でいい」と解釈する人は少なくありません。

ここまではいいとしても、「今までがんばりすぎていたから、もうがんばらなくてもいいんだ」とまで解釈するのは飛躍しています。

メンタルコーチの田中ウルヴェ京さんも著書『「最高の自分」を引き出すセルフトーク・テクニック』(祥伝社 2009年)の中で、他人と比較する必要はないが、本来の自分像と今の自分を比較して、自分を磨き上げることの大切さを説いています。

がんばりすぎても結果が出ていないのは、実は大してがんばっていないか、間違ったがんばりを続けているということです。がんばりをやめてしまうと、物事は動かなくなります。

そんなわけ、ないやん!

こうした誤解の元に成功法則を実践してしまうと、成功とは逆の方向に進んでいることになります。

こうした誤解が多いのは、成功に関する本の内容が薄められているからでしょう。

成功に関する本の原著の大半は、分厚く、情報量がたくさんあります。これは、海外の本に限らず、日本の本にも共通することです。それだけ成功に関する考えは、奥深く、簡潔にすると誤解を産むからでしょう。

こうした重厚長大な本は、昨今の出版業界の流れに反します。

実際、「だけ」「はじめての」「ずぼら」などのタイトルをつけると本は売れやすいようです。また、薄くてイラストやマンガが多用されていると、わかりやすく読みやすいと考えられています。

ですから、ベストセラーは、「マンガでわかる・・・」が発売されます。

特にこうした潮流を批判しているわけではありません。

私もできるだけ簡潔に人が成功する方法を伝えたいと思っている人間ですから。


受け取る方(読者、受講者)が良い方向に進めばいいのですが、思うような成功に進んでいない場合、理解が法則に反しているかもしれません。

なにがしかの成功法則に触れて、「そんなわけないやん!」と思ったとしたら、ほとんどの場合、その感覚は正解です。


歴史に何を学ぶのか?

また、歴史に学ぶという考え方にも危険性はあると思います。

歴史は歴史家によって編纂されたもので、確実に事実かどうかはわかりません。もちろん、事実を裏づける研究は行われていますが、一般の人の意識に浸透するのは最も優れたストーリーです。

ダンカン・ワッツは、『偶然の科学』(ハヤカワ文庫 2014年)の中で、「歴史は一度しか起こらない」と言っています。

確かに、似たような事態は起こっているものの、条件は同じではありません。だから、歴史を法則化することはできないというのがワッツの主張です。


戦国武将の考えに学ぶ際も、多くは司馬遼太郎さんの歴史観が事実にようになっています。司馬遼太郎さんは学者ではなく、小説家であることを忘れては行けません。

もちろん、歴史に学ぶことがないとは思いません。私たちの人生において有用な考え方や行動指針が見つけられることも多々あるでしょう。ただし、それらは再現性があるとは限りません。

実際、小国が大国に勝った戦の方法は、奇襲、密約、だまし討ちなど、現在では使うことのできない手段も少なくありません。

結果からの推測は法則ではなく、偶然の産物かもしれません。

とかく人間は自分に都合のいい解釈をするし、出来事や歴史に意味づけをするのが好きな生き物のようです。


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