1932/1936 暗い日曜日

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 現在のハンガリーにあたる地域の19世紀、20世紀は激動の時代だった。暗い日曜日に関係する時代に限っても1868年からはオーストリア=ハンガリー帝国(ハンガリー王冠領)、第一次世界大戦(1914〜1918年)とハンガリー革命(1918〜1920年)から、ハンガリー第一共和国(1918〜1919年)、ハンガリー評議会共和国(1919年)、ハンガリー共和国(1919〜1920年)に続く混乱の時代を挟んで、1920年からはハンガリー王国(〜1946年)、百年以上も政治・経済情勢が極めて不安定だった。
 とくに20世紀は第一次世界大戦から世界経済恐慌(1930年代前半)を経て第二次世界大戦(1939〜1945年)に突入していった。そんな時代環境もあってか、暗い日曜日の作詞者、作曲者の歴史記録は核心部分で精度が低い。 

1932 ❡ マジャル語版① 〕作曲者のシェレシュ レジェー(姓→名、出生名は Spitzer Rezso)はブダペシュトで生まれ(1889年=明治22年)音楽は独学だったが、1925年以降は楽曲制作等で成功して専業の作詞・作曲家となった。ブダペシュトのレストラン キシュピパ(Kispipa Vendéglo)でピアニストをしていた時代の1932年12月、世界の終わり(Vége a világnak)を作詞・作曲した(シェレシュR 43歳)。
 歌詞は第一次世界大戦が引き起こした絶望を歌ったもので、最後は人々の罪についての静かな祈りで終わる(世界の終わりという歌詞は第二次世界大戦 終戦以前の本文にはない。シェレシュRはユダヤ人、ナチス時代はウクライナの強制収容所で暮らした)。この楽譜は後に暗い日曜日となる楽曲の原典版(シェレシュ レジェー 1932年作曲=昭和03年)。世界の終わりの版は第二次世界大戦後の1946年に著作権登録された。

1933 ❡ マジャル語版② 〕作詞者のヤーヴォル ラースロー(姓→名、出生名は Schwartz László)はブダペシュトで生まれ(1903年=明治36年)新聞記者から文学に転じたが、ユダヤ人のため1938年以降は終生 フランス等の西欧で暮らした。ハンガリー時代に詩集(悲しい日曜日、1934年刊)、恋愛小説(悲しい日曜日、1937年刊)を執筆した。
 暗い日曜日の制作について後にシェレシュRが南マジャル誌(Délmagyarországnak)に語った経緯は次の内容(1936年刊)。
(推定1933年のとある日)シェレシュRがブダペシュトのカフェでピアノを弾いていた時、記者のヤーヴォルLが取材に来て記事を書いた。ヤーヴォルLは他日の夜、或る楽譜を持って再訪した。ヤーヴォルL制作の歌詞にラーチ ツィガ(Rácz Zsiga)という音楽家が付曲した作品で、曲名は黒い日曜日(Fekete vasárnap)。ヤーヴォルLは曲の付け替えを求めた。曲名を悲しい日曜日(Szomorú vasárnap ソモルー ヴァシャールナプ)に変更して付曲し直した作品はカフェのライヴ演奏で人気を博し、間もなくチャールダーシュ社(Csárdás)から出版された。
 この楽譜は後に暗い日曜日となる楽曲の原典版(ヤーヴォル ラースロー 1933年作詞=昭和04年)。歌詞はシェレシュR制作の世界の終わりと違って政治的な言及は一切なく、単に愛する人の死に対する悲しみと来世で彼らに会いたいという希望を歌っていた。この版が起源となり、暗い日曜日は世界経済恐慌からナチズムの台頭、第二次世界大戦へ続く暗い世相、自殺伝説等と相俟って急速に世界規模で各地言語版に拡大していった。

1935 ❡ マジャル語版 〕最初のSP音盤はマジャル語版。歌詞はヤーヴォルL(姓→名)の悲しい日曜日(Szomorú vasárnap)。ラヨシュ マルティニー(姓→名 1912−1985)のピアノ伴奏でカルマール パール(姓→名 1900−1988)が歌唱(Odeon – A 197420)。 

1936 ❡ フランス語版 〕歌詞はマジャル語 悲しい日曜日に基づいて ジャン マレズ(ジャン マリ エミル カルコピノ トゥソリ 1903−1942)とフランソア ユジェヌ ゴンダ(fl.1935−1938)の共作の暗い日曜日(Sombre dimanche)。曲はジャズの歌謡作品(morceau de jazz)、音盤レーベルはハンガリー歌謡(chanson hongroise)。ニコライ ペトゥロヴィチ アフォンスキ(1892−1971)指揮のアフォンスキ ロシア合唱隊の伴奏で(マリズ)ダミア(ルイズ マリ ダミアン 1889−1978)が歌唱(Columbia – DF 1879)。

1936 ❡ 英語版① 〕歌詞はマジャル語 悲しい日曜日に基づいて ハバト デズモンド カータ(1895−1939)が制作した暗鬱な日曜日(Gloomy Sunday)。クリフォド グリンウッド指揮クリフォド グリンウッド管弦楽団の伴奏でポル ロブスン(1898−1976)が歌唱(His Master's Voice – B.8423)。

1936 ❡ 英語版② 〕歌詞はマジャル語 悲しい日曜日に基づいて サム M ルイス(サミュエル M レヴァイン 1885−1959)が制作した暗鬱な日曜日(Gloomy Sunday)。ハル ケンプ(1904−1940)指揮のハル ケンプ管弦楽団の伴奏でボブ アレン(1913−1989)の歌唱(Brunswick – 7630)。
 1947年発売のビリ ホリデイ歌唱版はサム M ルイスの歌詞を採用しながら、ジャズ編曲版の新生面を拓いた(Columbia – 38044)。

1936 ❡ 日本語版① 〕歌詞はフランス語 暗い日曜日に基づいて 久保田宵二(1899−1947)が制作した暗い日曜日。淡谷のり子(淡谷規 明治40年 1907−1999)が歌唱。1936年(昭和11年)11月新譜発売、久保田宵二作詞・セレス作曲、登録番号 05933(歌い出し、元レコード番号欠落)等のデータで目録情報がある。しかし、実際のSP音盤のレーベルはジャズ ソング、清野協作詩、セレス作曲、仁木多喜雄編曲、 歌 淡谷のり子、コロムビア オーケストラ(Coloumbia 29083)。データが錯綜していて、詳細不明。

1936 ❡ 日本語版② 〕歌詞は英語版②サムMルイスの暗鬱な日曜日に基づいて 藤田まさと(藤田正人 明治41年 1908−1982)が制作した暗い日曜日。日本ポリドール管弦楽団伴奏で東海林太郎(明治31年 1898−1972)が歌唱。音楽はLジャポール/Pセレス(László Jávor / Rezso Seress)を基に山田榮一(明治39年 1906−1995)が編曲(日本ポリドール 2352A)。

1978 ❡ 日本語詩 〕何の但し書きも無しに いきなり本題から入れる環境は或る意味 不幸なのかもしれない。だから 御託にしかならない前置きを幾つか。
 日本語で概念する暗い日曜日という歌、これは固有 マジャル語の流行歌。シャンソンではなく、ジャズでもない。シェレシュRの世界の終わりもヤーヴォルLの悲しい日曜日も歌詞の側面では原案にすぎない(世界に拡大するモメントの自殺伝説も含めて)。ハ短調で初期設定したシェレシュRの音楽だけが形体として有効で(それとヤーヴォルLの歌詞の大枠も)、それが各国語でシャンソンなりジャズなり 各 独自の言語形体で発生した。その辺りが事実に近い。
 第二次世界大戦を挟んで前後の日本独特の歴史文脈はシャンソンの方角へ大きく舵をきり、暗い日曜日はシャンソン起源(歌手ならシャンソン レアルのダミア)となった。以降、翻案・翻訳の起点はJマレズ/FEゴンダのテキスト。浅川マキも例外にはなく、LP第10音盤(寂しい日々、1978年12月発売)B面4曲目、アルバムの最終曲に選んだ。
 曲名は日本語に並べてフランス語、マジャル語、英語を併記してあるが、日本語詩のモデルはフランス語歌詞の暗い日曜日(クレジットもJマレズ/FEゴンダ作曲、ヤーヴォルL作曲)。2017年12月時点のJASRAC登録59件のうち「浅川マキによる日本語詞および歌唱が原作の持つ世界観に最も忠実」と日本語版ウィキペディアで褒められている。
 ただ、直前引用の「」内、原作とは どの版の事を指しているのか、世界観とはテキストの何を指しているのか、だから何に忠実なのか、さっぱり判らない(から、贔屓の引き倒しにもなっていない)。
 橋本千恵子が翻訳し、それに基づいて浅川が日本語詩を制作したクレジットになっている。浅川はフランス語テキストの時制の使い方、その技術と効果の詳細を解説してもらったと推定する。浅川の理解の深さからみて、橋本はフランス語のかなりの使い手、文学の卓越した水準まで到達している才能とみる。
 これらを踏まえた上で、日本語詩制作の手順通り、原本から歌唱表現の観点から不要を削ぎ落とし、最終3行に向かって最大限の緊迫が生まれるよう詩行を再構築した。しかも、原詞最大の見せ場の時制の効果を骨組みに使い直して。こんな骨格の確かな歌詩をみたことがない。
  怖がらないで 恋人よ もし その目が あんたを
  見られなくなっていても その時は言うだろう
  命よりも あんたを愛していたと

1963 (1970) 雪が降る

 LP第01音盤(浅川マキの世界、197年09月発売)のB面3曲目。暗い日曜日がシャンソンかといわれれば、判断はかなり微妙。厳密にはマジャル語の流行歌。翻訳のフランス語版が それなりに売れたので、シャンソンといえなくもない程度。だとすると、雪が降るは浅川歌唱 唯一のシャンソン だらうか。1960年代以降はフレンチ ポップスではあっても、シャンソンではないような気がする。つまり 原曲自体がフランス語の流行歌。
 もう一つの理由。LP第01音盤のB面は1968年12月の蠍座公演のライヴで、寺山修司のプロデュース(企画・立案)。どこまで浅川の意図だったのか 不明。更には、LP第02音盤以降の習慣で日本語詩という事にはなっているが、浅川自身が制作したものではなく、また、LP第02音盤以降にみる日本語詩の完成度の高さは片鱗も感じられない。仮に トンブ ラ ネージュに日本語が無かったとして、浅川が新たに日本語詩の制作を試みただらうか、ほぼ無い。

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