「ドラゴンズ」は、母と愚息のコミュニケーションツールだった
もう1度、ボクシング記者として自分の人生を送りたい。その想いを忘れられず、佐賀での仕事にひと区切りをつけて、妻、子どもたちと離れて生活することになったのは2007年4月。東京からは離れているものの、佐賀よりは近い実家(小田原)に戻ってきたのだが、最初からすんなり元の仕事に戻れるほど、世の中単純にはできていない。
そんな鬱々とした毎日の中で、唯一楽しみとなったのが野球観戦だった。ボクシング観戦同様に“空白の3年”があったから、すっかり疎くなっていたけれど。当時のドラゴンズは“史上最強”とも謳われた常勝チーム。その躍進ぶりはもちろん知っていたものの、佐賀での生活に時間的余裕はなかったから、今のような追い方はできなかったのだ。
小田原の家はケーブルテレビと契約していて、BS、CSともに視聴できるようになっていた。どうやって知ったのかわからないが、映画やドラマ好きな母が自分の知らぬ間に環境を整えたのだろう。幸運なことに、プロ野球に関しては全チームの放送を押さえることができたから、まるで現実逃避するかのように観戦した。そんな息子を、何も言わず心配そうに見つめていた母も、この愚息の影響でいつの間にやらドラゴンズファンと化した。その後、ようやく働き始めることのできた不在の私に代わり、ほぼ全試合観戦していた。
選手の名前や個性を覚えてからは、映画やドラマはそっちのけで夢中になっていたようだ。元々スポーツ好き、学生時代はソフトボールに励み、結婚後はテニスを、小田原で独り暮らしている間は水泳をやっていた人だったが、まさかドラゴンズにハマるとは思わなかった。けれども、「ドラゴンズ」は、親子がコミュニケーションを取る上で、とても大切なツールとなった。その後、病気を患った母だが、水道橋や名古屋へ一緒に足を運び、レフトスタンドで観戦したことは、自分にとって生涯の思い出となる。
そんな母も6年前に他界したが、応接間と彼女の部屋には、今でもドラゴンズの選手のユニフォーム(大野雄大投手)とサイン色紙(山井大介投手、大島洋平選手)を飾ったままだ。
当時ドラゴンズ担当をされていたM記者の計らいでいただいたもの。闘病中の彼女への応援メッセージまで入っている、この世にひとつしかないもの。何だか母が見ているようで、片づけることができない。
中でも母がいちばん推していたのが大野。この息子ですら辟易してしまうほど野球観戦中の母は口が悪かったが、こと大野に関しては、悪態を聞いたことがなかった。どんなに打たれようが「大野はできる子」と達観した眼差しでいた。大野が“エース”と呼ばれるようになったのは、彼女が亡くなった後だ。その後の彼の大活躍について語りたかったと今は思う。