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地下鉄サリン事件実行犯・豊田亨元死刑囚とわたしの小さな接点

今から5年前の2018年7月26日、世間を震撼させた地下鉄サリン事件の死刑囚の死刑が執行された。
その時執行された豊田亨元死刑囚は、私の高校の卒業生で、私の高校時代の体育教師の息子だった。


父親である体育教師からのいじめ

わたしは高校時代アトピーが本当にひどくて、いつも顔は赤く腫れ上がり、制服のブラウスや体操服の首もとにはいつもかきむしった血がついているような状況だった。
その体育教師は、わたしのことを名前ではなく「おい、アトピー」とヘラヘラしながら呼んでいた。
やめて欲しいと訴えても、「ほんまのことやん」と言うだけだった。当時役員をしていた両親を通して抗議しても、態度を改めることはなかった。
結局3年間、一回も名前で呼ばれることなく過ごすことになったのである。
完全ないじめだ。
踏みにじられた自尊心はズタズタになっていた。
「おい、アトピー」と呼ばれるたびに悔しさと悲しさ、体育教師に対する憎しみがこころを支配してゆくのを感じていた。
復讐できる手段があれば復讐したかった。
神様とやらがいるのなら、こいつに天罰を与えてくれと願った。
こんな人間に、教師をする資格はないと思った。
どうしても許せなかった。

突然飛び込んできた、体育教師の息子・豊田亨容疑者逮捕のニュース

高校を卒業して数年が過ぎた頃である。
たまたまつけたテレビでやっていたワイドショーの画面に、母校が写し出された。
キャスターは、あの体育教師の息子である豊田亨容疑者が、地下鉄サリン事件の犯人として逮捕されたことを伝えていた。
体育教師の家も写し出されたが、人が住んでいる気配は全くなかった。

体育教師への思いは…

ざまあみろ。ようやく天罰が下ったのだ。

そう思うはずだったのに、そんな気持ちにならなかった。
あの体育教師はどこかで無事に生きているのだろうか。住む場所はあるのだろうか。仕事はどうなったのだろうか。
我ながら偽善者だなと思うくらい、そんなことばかりが頭をよぎっていった。
もちろん、憎しみは残っていた。ヘラヘラしながら「おい、アトピー」と呼んだ表情も口調もはっきり覚えていて、傷つけられた自尊心はそう簡単に元には戻っていなかった。
それでも憎みきれなかったのはなぜなのか、ざまあみろ、思い知ったか、天罰が下ったのだという気持ちが1ミリもわいてこなかったのはなぜなのか、今でもわからない。

体育教師のその後を追う

裁判のニュースは欠かさずチェックした。
体育教師が法廷で何を語るかを知りたかった。
一方で、彼がとにかくどこかで何とか生きていることを確認するような、とにかく無事でいてくれと祈るような思いも頭の中にあった。

息子の死刑が確定してから、体育教師がどこでどうしているかを知る手段はなくなった。報道されなくなってしまったからだ。
そして5年前の7月、息子の死刑が執行された。

加害者家族として生きる体育教師

体育教師が今も生きているとして、どのように暮らしているのだろうと思うことがある。
犯罪者になる前の息子と暮らした日々を思い出すことはあるのだろうか。
どんな思いで息子を育てたのだろう。
どんなことを「大切なこと」として教えたのだろう。

息子が犯罪を犯したと知った時。彼は
「びっくりしたことで、訳がわかりませんでした」
というような証言をしていた。
息子が犯罪に至るまでの遠因も、知らないことの方が多いようだった。
犯罪者の親の多くが思うであろうことを、あの体育教師も思ったのだ。そして親子関係も、特別悪いというわけではなかったのだろう。
だからこそ、息子が犯罪者となったことに「びっくりした」のである。

息子の罪は死刑でしか償いようがないとわかった時。
息子の死刑が確定した時。
そして息子の死刑が執行された時、いったい何を思ったのだろう。

地下鉄サリン事件の発生から30年近くが経過した。
体育教師が「加害者家族」として生きてきた、またこれからも生き続けるであろう年月の長さを思う。
簡単には語れない、重い年月のことを。
「加害者家族」として生きてゆかなければならない体育教師のことをわたしが考えることは、もしかしたら傲慢なことなのかもしれない。
人知れずそっと暮らしているのであればという気持ちは本物なのだが、それも「上から目線」なのかもしれない。同情しているわけではない。歪んだ優越感に浸っているわけでもない。フラットな気持ちで眺めることが難しく、なかなか気持ちの整理がつかない。
わたしの中では、まだ終わっていないできごとのひとつである。




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